- クイズ!歌うぞ音楽王 - チャンスの殿堂! !」と発言。松村は、当時土曜日の『サタデージャングル』レギュラーであったことから、姉妹番組を応援する発言を行なった。, 本来『サンデージャングル』は23:00からの放送で、電波少年は22:30からの放送だが、当日は直前に放送されていた『おしゃれカンケイ』が60分スペシャルであったため、30分遅れで23:00からの開始となっていた。このため、電波少年の裏番組を宣伝する発言をしたという理由で強制的に番組出演を自粛させられる。もっとも、当日はプロ野球中継が延長したためサンデージャングルも同じく30分遅れの23:30からの放送となっており、電波少年とは放送時間が重複しなかった。, その後、松本だけでスタジオ収録が行なわれ、松村のロケのVTRはもちろん、過去のVTRにおいても松村の顔にモザイク処理を施すなどして、松村を徹底的に排除した放送が続く。この仕打ちに松村もまいり、スタジオ収録中の松本に謝罪と復帰を懇願する電話を入れ、松村に悪気がなかったことは認められたが、自粛中に視聴者から「松ちゃんを辞めさせないで!」という意見と、「よくぞ松村を辞めさせてくれた!」という意見が2通ずつ届き、松村に対する世論が拮抗したため、テレゴングによる視聴者投票によって松村の処遇を決めることとなった。, その結果、「許してあげる」:1,340,946票(49.2%)、「許してあげない」:1,383,836票(50.8%)となり、42,890票(1.6%)の差で「許してあげない」に決定した。, その後、視聴者から「松ちゃんを許してあげて!」という意見が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが、今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到したとして、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけてんのか!」という苦情が寄せられるようになったとして、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます(笑)」と回答、結局松村は復帰する。これにより、松村の降板騒動は再度炎上することとなった。, この間は「レギュラー司会者争奪サバイバルシリーズ!」と称して松村と当時の若手芸人とのVTR対決が行われていた。, しかし、1997年大晦日のドロンズゴール特番には出演するものの、翌日の新年特番にはなぜか出演しなかった。以降『進ぬ!』での出演もなく、大晦日が結果的に最後の出演となった。この突然の降板について番組や本人からは何の挨拶も説明もなく、その後の番組内でも松村について一切触れていなかったことから、土屋は降板騒動について「実はマッちゃんがノイローゼになったとか周囲から言われて心配していた」と語ったが、何の挨拶もなかったことについては「電波少年に花束はいらねぇだろう」の一言しかコメントしなかった。この時、松村の降板に対する抗議電話は一本もなかったという。, 『進め!』末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に『松村邦洋のひとり電波』という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。, 後年、土屋は自身の著書の中で「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。これは、以下の事情によるものである。, これらの事情から、「司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上(松村は)外さざるをえなかった」としており、すなわち、「アポなし企画をやめる以上、(立場的にも)松村の降板は避けられなかった」というのが真相であった。したがって、前述の「サンデージャングル発言」は全くの無関係であり、松村も実際はただ台本に従って発言しただけであった。そして、テレゴングによる視聴者投票は、実はスタッフによって意図的に行われた物で、松村の処遇に対しての視聴者からの意見及び苦情も、あらかじめスタッフに用意された物であり、ひっかけも何も無かったことが明らかにされた。, 一方で、「『進め!

!…あれ〜?」と語らせ、フジテレビを皮肉った[16][17]。, 小室哲哉との破局から復帰するも再休養に入り、カナダから一時帰国中だった華原朋美が自力だけで全米でCDデビューすることを目指しゼロからスタート。ちなみに、Tプロデューサーが来た時はゲストとしての出演依頼と半ば勘違いしていたらしく、二つ返事で了承したものの出発直前になって『少し考えさせて欲しい』と躊躇う一面もあった。, 現地で華原は「日本の有名歌手である」ことも通用せず、開始当初は絶望的ともいえる企画ではあったが洗車場でのアルバイト、ボイストレーニング、クラブでのステージ、オーディションなどを経験し、半年後「Never Say Never」でデビューを果たし帰国した。, 華原自身は「この企画がなければそのまま芸能界から消えていた」という旨の発言をしている。, 「大学に行きたい!」と強い思いを抱く若手芸人が東京大学合格を目指して勉強に励む企画。当初はカズマキの小倉一真が選ばれていたが、二度の脱走の末リタイアしたため、『雷波少年』プロデュースのイベントに参加していたアルカリ三世(当時)の坂本ちゃんが新たな挑戦者になった。, その後、家庭教師として東大出身のケイコ先生も加わり日夜勉強に励んだが、センター試験での成績が振るわず、東京大学2次試験出願を断念。下記の「どこでもいいから一直線」に移行した。企画中、相方の添野豪が太宰府天満宮へ自転車で合格祈願のお守りと絵馬を買いに行ったこともある。, 東京大学を断念したもののその成績の向上を無駄にすべきではないということで、坂本ちゃんがどこでもいいから大学に合格するという目標に切り替えて再スタート。15の大学を受験した結果、8大学に合格しその中から日本大学に入学することとなった[18]。, 「アメリカのコメディーよりも日本のお笑いのほうが面白いのではないか?」という疑問から、アメリカに通用する日本のお笑いを作るためダウンタウンの松本人志が挑戦した。ただし、これまでの企画とは異なり松本はスケジュールの都合などで[19]拘束されることはなかった。企画はまず、アメリカでコメディアンとして活動する野沢直子に会いに行き現地のコメディーショーを視察、数か月後松本の過去のコント作品(字幕版)をアメリカ人に見せて反応を伺った。ほとんど満足のいく反応を得られず、改めてアメリカ人向けのコント作品「サスケ」を制作することが決定。その後納得の行く作品に仕上がるまで推敲を重ね、ニューヨークでの上映会へと向かった。上映会に集められた観客は200人で、人種・年齢・性別は当時のアメリカ国内の比率に合わせられている。結果アメリカ人からそこそこのウケを得た。, 企画は手探り状態で進められ、放送する内容が限られるためかなかなか企画が前進しなかった(松本にインタビューをしている際に土屋が音声スイッチを入れ忘れ、何を言ってたか想像する件で場を持たせたこともある)。「サスケ」の完成まで時間がかかり、半年以上放送されない時期もあった。また、松本のアメリカロケには土屋が直接同行した。, 矢部太郎が挑戦した企画で、様々な国の言葉を学習しその国の人々を笑わせるというものだった。応援歌はTM NETWORK「CASTLE IN THE CLOUDS (YABE VERSION)」。この企画では食事の前に会話テストが行われ、正解すると食事ゲットというのが基本的なルールとなっている。出題方式や食事の内容などは以下の通り異なる。, 最末期のコーナーで、タイトルは『15少年漂流記』のパロディである。「電波少年的おニャン子だったりモー娘だったり…」で集められた以下の15人が強制参加。2000年から2001年にかけての大晦日・年越し特番『いけ年こい年世紀越えスペシャル』で、久保田利伸が作詞作曲を手がけた『Vibe,Survive』の振り付けを間違えて踊ってしまったため、とある無人島(タイ)に島流しされた。, 最初、土屋はチェキッ娘が卒業(解散)する際(1999年11月)に始める形で、同グループのメンバー全員を同様に無人島に連れていって『サバイバー』のようなことをやろうという企画で、当時フジテレビのプロデューサーだった「チェキッ娘生みの親」こと水口昌彦[20]に打診、水口もそれに協力し当時のメンバーの所属事務所や家族らに話をつけるなどしたうえであと少しで企画が動き出せるというところで、メンバーの誰か(誰であったかは結局不明だった)がこれを聞きつけて他のメンバーに漏らしたために企画がばれ、土屋もこの企画をボツにして改めて立て直したのがこの企画だったという[21]。なお、当初の企画対象だったチェキッ娘からは野崎恵のみが参加している。, この企画ではスタッフはおらず、参加者の15人が取材カメラなどを担当した。いかだを作って無人島からの脱出を目指す。次々に脱落者を出し、最終的に島を脱出したのは8人であった(なお脱落した7人の内、1人は開始早々に火傷を負ってしまった為にドクターストップをかけられた。他の6人は企画内容や人間関係に嫌気がさしたことによるリタイヤ)。のちにその8人はグループ名を『8/15』(エイト・パー・フィフティーン)としてあらためて『Vibe,Survive』を披露し、シングルをリリースした。, 「15少女漂流記」と同じ条件で、15カ国の少女たちが自力での無人島脱出を目指すというものであった。ただし「15少女」とは異なり、スタッフも島で一緒に生活する。日本人では「15少女」にも参加した野崎が再び選ばれ、無人島はカンボジア領の一無人島であることが後に判明した。一方、ヨーロッパ出身の参加者の態度が問題視されていたが、後になって制作局が全く違う内容のテロップを流していたり、やらせを強要していた。また、デング熱に罹患したという告発がなされ、番組ではこれを否定しフライデー騒動事件へと発展した。, 随時伝言ゲームが実施され、成功するとほしいものを獲得できる。お題は「鈴木宗男」、「仲良し」(このときメンバーの対立が相次いだ)、「人妻温泉」(ディレクターの好きな番組)、「もうちょっと頑張れ、TBSのサバイバー」など。この企画では野崎(日本)の他にペルー、カンボジア、ケニアの3カ国の代表が脱出を果たした。, 2001年8月の収録終了後、チューヤンがTプロデューサーに突然呼び出され、「8月26日の巨人VS中日戦にゲスト出演してくれ。でも、もし巨人が負けたら、電波少年クビ」と言われ、急遽成立した企画。 『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、1992年 7月5日から1998年 1月4日まで、日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:55 に放送された、日本テレビ制作のバラエティ番組である。

後日、チューヤンは再びTプロデューサーに呼び出され、後述の「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」の企画への1か月の応援参加を条件に、復帰出来ることに。これは本人の希望で2ヶ月に延長された。2か月後の11月4日の番組途中から復帰した(同時期に雷波少年にも復帰している)。 電波少年』といったら松村」と、土屋もその功績を認める発言をしている。, 本番組を降板後、松村は芸能人として一時期低迷し、当時レギュラー出演していた番組もいくつか降板している。その反面、本業のモノマネ芸を磨くことができたとも語っている。, 後年、ABCテレビ(朝日放送)の『ナンバ壱番館』に松村が出演した際は、「嫌がらせがなくなったが、自分が街に出ても相手にされなくなった」と紹介された。同番組では具体的な番組名は出していないものの、「松村の発言で降板を余儀なくされた」という解説があった。, 放送枠がローカルセールス扱いとなっている関係上、系列局であっても自社制作のローカル番組の放送や他系列局番組の遅れネットなどを優先して同時ネットしない地方局が存在した[17][18]。, 懸賞生活(2009年版) - 地球防衛軍 - 熱狂的巨人ファン - 電波少年的放送局, 笑撃的電影箱 - 雷波少年 - 松村邦洋のひとり電波 - 雲と波と少年と - 放送作家トキワ荘 - 電波少年2010, 松本明子 - 大塚範一 - 松村邦洋 - チューヤン - 室井滋 - 土屋敏男 - 吉川圭三 - 氏家齊一郎 - 正力亨 - 萩原敏雄 - 木村匡也 - 電波子 - 電波子2〜28号 - 伊藤高史 - 久保田利伸 - ふかわりょう - なすび - 坂本ちゃん - 春野恵子 - 猿岩石(有吉弘行・森脇和成) - 爆風スランプ - ドロンズ(大島直也、石本武士) - 前田亘輝 - Rまにあ - 内田有紀 - 真中瞳 - 篠塚ひろむ - 川元文太 - ポプラ並木 - 矢部太郎 - メカドッグ (沢原宣之・杉山英司)- 安田ユーシ - 坂井香代子 - 山内浩司 - 吉田秀一 - 大和心 - Something ELse - Bluem of Youth - 羽田実加 - 椿鮒子 - ウクレレえいじ - 8/15(つぶらまひる・野崎恵・いとうあさこ・黒沢かずこ・中村エミ・宮崎景子・津川友美・斉藤ゆり) - 三原麻衣子 - 原田慎治(クールズ) - 小田好美「ジャイ子」 - 葉川空美 - タイムトラベラー(森田仁、蓮沼誠司) - Asian H(鳴海一幸、パク・チョンア、秦昌寛)- ビビる. - 三宅裕司 みんなのヒット!ベスト20+10 - MBSヤングタウン - サテライトNo.1 - アッコ・徳光のラジオ紅白歌合戦 - おはようパーソナリティ道上洋三です - 午後のまりやーじゅ- ラジオ・チャリティー・ミュージックソン, ビートたけし - 掛布雅之 - 川藤幸三 - 出川哲朗 - 高田文夫 - 板東英二 - 片岡鶴太郎 - 松本明子 - 吉田義男 - 野村克也 - 貴乃花光司 - 和田アキ子 - 峰竜太 - ダチョウ倶楽部(肥後克広・寺門ジモン・上島竜兵) - 有吉弘行 - 三宅裕司 - 山田邦子 - 久本雅美 - 今田耕司 - 東野幸治 - 土田晃之 - 徳光和夫 - 所ジョージ - タモリ, 太田プロダクション - 阪神タイガース - ものまね - 爆笑問題 - 東京マラソン(東京マラソン2009) - RIZAP - お笑い第三世代, 同企画での主目的は、有吉がインドの恩人にヒッチハイクで会いに行くというものであった。, 放送はされなかったが、アメリカでのヒッチハイクの最中通りすがりの車に銃で発砲されていたことを、, あくまでもこれは演出であり(当日の新聞番組欄でも最終回扱いとされておらず、[終]マークはついていなかった)、実際は11日より『進, メディアと性的マイノリティ10●進め!電波少年の松村邦洋が赤ちゃんで・・・「今晩一晩、お宅のお子さんにしてください」、フツーに生きてるGAYの日常(映像作家・島田暁(akaboshi)のブログ)、2010年12月1日 20:53:57。, 番組末期は地方の他系列局開局に伴う放送枠の移動やローカル番組の終了に伴い本番組を同時ネットに移行した系列局も存在した。, 松村邦洋、『電波少年』の企画でバツイチになっていた!エピソードがブッ飛びすぎwww, テレビ東京52年分の映像大放出!モヤモヤ映像廃棄センター〜こんなVTR新社屋に持って行けません〜, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=進め!電波少年&oldid=80342859. - オールナイトフジ - うるとら7:00 - お天気チャンネル - オレたちひょうきん族 - ものまね王座決定戦 - ものまね珍坊 - ビートたけしのお笑いウルトラクイズ - スターどっきり(秘)報告 - ドリフ大爆笑 - まけたらアカン! - 土曜スペシャル - クイズ地球まるかじり - 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル - 秘密のケンミンSHOW - ゴゴスマ -GO GO!Smile!- - ヒルナンデス! !ロボコン - 犬夜叉 - チャンスの殿堂! 翌週の放送では松本のみが出演した。冒頭で、電波のみならず雷波少年もクビになったことが発表される。

- テレビ東京52年分の映像大放出!モヤモヤ映像廃棄センター〜こんなVTR新社屋に持って行けません〜, 笑福亭鶴光のオールナイトニッポン - MBSヤングタウン - 高田文夫と松本明子のラジオビバリー昼ズ - ラジオ・チャリティー・ミュージックソン, 本宮泰風 - 原田龍二 - 中村光一 - 中山秀征 - 飯島直子 - 松村邦洋 - 笑福亭鶴光 - 峰竜太 - 渡辺晋 - 松居直美 - 加賀まりこ - 中井美穂 - 井森美幸 - 森口博子, 渡辺プロダクション - ワタナベエンターテインメント - バップ - 東京ヤクルトスワローズ - お笑い第三世代, アッコにおまかせ! - クイズ!歌うぞ音楽王 - 快進撃TVうたえモン - カッ飛び!花マル塾 - ビデオあなたが主役 - 世界とんでも! - 進ぬ!電波少年 - 京都 心の都へ - ムーンスパイラル - 燃えろ!

番組が有名になったことで、アポなしをしても相手が歓迎してしまうという、今までのケースが成立しないロケも出てくるようになった。, 初回の放送で、「イラン人AD募集」として日本語の流れないペルシャ語だけの映像を流した(映像の意図は後日判明する)。土屋は視聴率よりも視聴者を驚かせたい気持ちで流したらしい。実際に一人のADが採用された。, アポなしのロケに急遽抗議があり放送できなくなり、穴埋めとしてアルプスの美しい風景を1分ほど流したことがある。この手法は「進ぬ」以降も何度か行った(, 松村は「我々が行くところは安全じゃないけど、景色はいい」と語り、松本や土屋も同調している。現にアラスカでオーロラを見たり砂漠を彷徨ったり他番組では味わえないような貴重な景色に出くわしている。, 一方で番組スタッフはロケ後、謝罪を繰り返し、オンエアーにつなげた。長濱プロデューサーは「ディレクターや作家の力量もありますが、この番組成功のおおもとは人柄だと思います。僕らは何度も何度も広報の人に頭を下げてオンエアーできるようにがんばってきたんです。」と語っている。, 「松村が貴女のストーカー問題を解決します」として視聴者からの依頼を募集したことがあったが、結局その企画が放送されることはなかった。, 松本が日本テレビの連続ドラマに出演している時期、そのドラマに出演している俳優がゲストの回では必ずと言っていいほど最後に「先週の電波少年見た?」もしくは、「先週の猿岩石見た?」というセリフを言ってほしいというアポ無し企画があった。, 土屋は著書やDVDの中で、追いつめられる松村はチャーミングであると評し、この表情が見たいがために過酷なロケを繰り返したと語っている。このキャラクターだからこそ我々は大人のいじめっこにならずにすんだ、と松村の功績を高く評価している。, 上記ローカル番組を同じ時間帯で放送している都合上、特番を除き同時ネット化はされておらず、日本テレビでの放送から6日遅れの土曜17時台前半にて放送されており、『, 当初より遅れネット(日曜正午→日曜深夜)となっており(同時ネットされていた時期や未放送期間もあり)、後番組である『進ぬ』がスタートしてからも、, 番組スタートから同時ネットしていたものの、初期ではローカルの特番で潰れることがちょくちょくあった。, その後の『進ぬ!電波少年』や『雷波少年』などの電波少年シリーズに属する番組群も同局で放送された。, 『笑撃的電影箱』時代は別番組を放送していたため『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』共々非ネットとなっていたが、枠解体後の1994年4月3日よりネットを開始した。当日は『オシャレ3030』が60分スペシャルだったため、『電波少年』が先行してネット開始となっている, 「The Wall 〜長城〜」BEYOND(1992年7月5日 - 1993年3月28日), プロデューサー:篠木為八男(1992年7月5日 - 1993年5月30日)、長濱薫(当時・NTV映像センター 現・. !GOLD』にていずれも司会を務めた。いずれの番組にも当時「チェキッ娘」として出演していた野崎恵は、その後「電波少年的15少女漂流記」に参加している。, ヒッチハイク完結編。シリーズとしては唯一お笑いタレント以外による企画であり、朋友(伊藤高史、チューヤン(謝昭仁))が務めた。ゴール時には、猿岩石・ドロンズがともにスタジオゲストとして出演し、ゴールの瞬間を見守った。, 1997年4月13日にテレビ朝日系列で放送された『ゴールデンナイター』阪神×巨人戦(甲子園)に、朝日放送(ABCテレビ)制作テレビ朝日系列全国ネットの中継に松村がゲスト出演。阪神ファンである松村は、阪神が勝利した喜びに興奮して、「この後、『サンデージャングル』を見て下さい!

日本テレビ - スーパースペシャル - 火曜デラックス - 小学館(ちゃお) - 恋はオン・エア! - 電波少年シリーズ(進め!電波少年、進ぬ!電波少年) - スーパークイズスペシャル - スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会 - 24時間テレビ 「愛は地球を救う」 - THE夜もヒッパレ - ザ・ラスベガス - 歌いこみ音楽隊! 渡辺徹の家でウンコしようとインターホン押したら「俺は電波少年嫌いなんだよ!」ってキレられたんだっけ, 作ってる側の「こんな企画を考えちゃう俺たち面白いだろ?」感が出てくると番組って終わるよな, インターナショナルで山ちゃんがチュパカブラ捕まえに行くのとアンデスにコンドルの羽をとりに行くやつが見たい, 豪邸のトイレでうんこがしたいシリーズで中東行ったら途中で車故障して砂漠の真ん中で遭難してたのはマジやばかった, 頭おかしいYouTuberみたいなのを見慣れてる今となっては、どうしてもそれらよりソフトな番組になっちゃうだろうね, WOWOWなら地上波みたいにコンプライアンス気にしてつまんなくなることないだろうな, 【ラジオ】松村邦洋 司会務めた「電波少年」復活に言及「当時のメンバーがみんな集まるみたいですね」, http://slosux.piela.biz/ctcs/wwR3347271.html, http://slosux.piela.biz/vtcs/WycB1930551.html, https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1604653509/. チューヤンさんは「進ぬ!電波少年」で相方と過酷なヒッチハイクをしたことで有名ですが、現在の年収がすごいと話題です。 今回はチューヤンさんのプロフィール、電波少年での相方や旅記録、帰国後の年収や結婚など現在を紹介します。 氏家齊一郎 - 元木大介 - ウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)- 長嶋茂雄 - 藤田元司 - 清原和博 - 正力亨 - 徳光和夫 - 松永二三男 - 関谷亜矢子 - 永井美奈子 - 福澤朗 - 馬場典子 - ビートたけし - 松村邦洋 - 飯島直子 - 辺見えみり - 有賀さつき - 佐藤里佳 - 大坪千夏 - 深澤里奈 - 宮瀬茉祐子 - 生野陽子 - 宮司愛海 - 井上清華 - 藤本万梨乃, 『電波少年』が10周年を迎えたとして、2002年7月にアポ無しロケが1回限り復活した。, そのロケは松本がメインで行ったもので、松村が行った未放送分のロケは一切流さなかった。, その際に、「これからも伊藤高史をよろしくお願いします」と番組からのメッセージがテロップで表示された。, 「地球」は「地久(ちきゅう)」姓の老人、「まもれ」は「まもる」という名前の少年によるもの, ただし、定期的に箱は移動されたが、この時の移動距離は1500キロに含まれていたかは不明。, それまでは、企画開始当時スケジュールが全くの白紙だった無名タレントや芸人が挑戦したため、部屋に拘束させて企画を進めることができたが、この企画は大物タレントである松本を起用したため、レギュラー番組などのスケジュールを優先したためだと思われる。, 当初は、オーディションで決定した15人程度が参加予定だったが、参加当日に現れなかった者や当日姿を現したものの家族の猛反対で参加前に辞退を申告した者がいた。, 本来は「電波少年的インターポール」企画終了後に放送される予定だった。お蔵入りも検討されたものの、最終的には「巨乳ジャンケン」・「そっくりさんジャンケン」の企画終了後に放送された。, 秋田放送・四国放送・福井放送は本番組終了と同時に日曜22時台後半の放送枠の時差ネットを打ち切った。但し、秋田放送・四国放送は『, ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること, 『イッテQ!』疑惑の「フジテレビVS日本テレビ」バトルで思い出される“骨肉の記憶”, テレビ東京52年分の映像大放出!モヤモヤ映像廃棄センター〜こんなVTR新社屋に持って行けません〜, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=進ぬ!電波少年&oldid=80352323. - 土曜スペシャル - クイズ地球まるかじり - 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル - 秘密のケンミンSHOW - ゴゴスマ -GO GO!Smile!- - ヒルナンデス! - メレンゲの気持ち - 快快!高田病院へ行こう - TVチャンピオン - TVチャンピオン2 - 2時っチャオ! - DAISUKI! - 細木数子の人生ダメだし道場 - いよっ!日本一 - おもいッきりDON! 全日本プロレス中継 - ウンナン世界征服宣言 - スーパークイズスペシャル - スポーツうるぐす - スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会 - 頑張る!TV!! - スーパージョッキー - THE・サンデー - 紅白なんてブッ飛ばせ!!

電波少年か、雷波少年かどちらか忘れたけど アンコールワットへの道の舗装というコーナーがありましたよね。 それに出ていた戦争孤児のサン君の参加について みなさんど …

つぶやきシローのYESマンが行く!インドにいるダライ・ラマを8ミリカメラに収めたい! - DAISUKI!

実際にチューヤンは松本と共に2001年8月26日の『劇空間プロ野球』にゲスト出演したが、この日は先発の入来祐作が初回に立浪和義、レオ・ゴメス、福留孝介に3本塁打を許し、5点を奪われるなど乱調で後続のピッチャーも失点を重ね、打線も中日先発の野口茂樹から一時は1点差に詰め寄り4点を奪ったものの、反撃もそこまでで、野口に無四球完投勝利を許し、試合は9-4で中日が勝利した(なお、打撃戦で試合時間が長引いたため、中継は試合終了まで放送されなかった)。同日は日曜日だったため番組が放送されたが、収録は当然試合前に放送されたのでチューヤンも出演していたが、チューヤンの顔は隠され、「巨人負けたのでクビ」と表示された(但し、声だけはそのまま流された)。 後日、チューヤンは再びtプロデューサーに呼び出され、後述の「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」の企画への1か月の応援参加を条件に、復帰出来ることに。 アメリカ横断ウルトラクイズ - クイズ・ドレミファドン! 『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、1992年7月5日から1998年1月4日まで、日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:55 (JST) に放送された、日本テレビ制作のバラエティ番組である。電波少年シリーズ第1作。, 「見たいものを見る、したい事をする、会いたい人に会う」という3つのコンセプトの下、アポなし、突撃、ヒッチハイク、さまざまな無茶に挑戦したテレビ史上類を見ない伝説的バラエティ番組として幅広く認知されている。マフィア、暴力団、スラム街までも番組の題材にし、出演者の生命や番組自体の存続にも関わる危険なロケも多かった。, 当初『笑撃的電影箱』の第1部としてスタートしたこの番組は、本来はウッチャンナンチャン主演の映画『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった[1][2]。同番組の出演者のうち、出川哲朗はアポなしロケに出演していた他、ウッチャンナンチャンも不定期特番の『電波少年INTERNATIONAL』や『いけ年こい年』にゲスト出演している[3]。, 当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろうと考えたが、出演者の松本明子と松村邦洋は編成ですでに決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と、後述の顔だけのCG合成を決めた。, 構成作家の小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言から『怪傑電波芸者』を提案。しかし製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』及び『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。, 「どうせ2ヵ月だけ」のつもりで放送し、社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年INTERNATIONAL』や、1997年以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年には1月1日に放送されたスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。, CS放送では、CS★日テレにて1996年から2000年9月まで、地上波との同時放送が実施されていた他、2010年3月12日から2017年3月まで日テレプラスでも再放送が行われた。(1997年6月15日放送分まで)さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日の深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。これらの展開に合わせて、電波少年ホームページも2010年3月29日にリニューアルされた。, スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である。この映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時日本テレビを含めても全世界に数台しか無かったという。, また、VTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触♡」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもので、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。, 形式上は松本と松村がMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。, 上記以外にも、経営が危なくなった新宿末廣亭を「広末亭に改名すればいい!」と、勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、受付で門前払いされたり、フランスの作曲家ポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功するなどの企画も放送された。, 上記以外にも、番組から電波子(現:滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2〜28号を登場させるという企画や、女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員に、「それはお漏らしとは言わない」と松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった企画も放送された。, のちの番組の顔となり、『進ぬ!電波少年』でも『アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク』(便宜上本項に含める)、『80日間世界一周』などとシリーズ化された。, 1996年4月、番組オーディションに参加した当時無名のお笑いコンビ猿岩石(有吉弘行、森脇和成)が、土屋に「電波少年INTERNATIONAL」の香港会場で前説をするように頼まれて連れていかれた。しかし、番組の放送中に突然呼び出されて、そこで「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール」という壮大な目的を果たすよう告げられる。もともとTake2が本命として企画されたものであったが、深沢邦之が当時新婚であったため断られ、代わりに半年間のスケジュールが全く白紙だった猿岩石が起用された[7]。, 軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要であることを知らず、いきなり香港で数日足止めを食らうことになった[8]。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。, インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。結果、他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった(後述)。爆風スランプによる応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。, なお、猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールしたとされていたが、道中で3回ヒッチハイクでない飛行機を使っていたことが判明した。ルートの途中には国境での外国人入国禁止となった国や内戦や治安が悪いところがあり、大事をとって飛行機に乗ったものとしているが、番組では判明するまで全く触れていなかった。日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)は「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし、各方面から非難を受けた。, また、バックパッカー経験者からは、番組中で猿岩石が「治安の悪い地域で野宿をする」「生水を飲む」といった実際の旅行者なら絶対に行わない行動をしていることから、「番組を真似した視聴者が実際にやれば命に関わる」と警告の声が出ている[9]。, 一方で、2人の頑張っている姿に感銘を受けた俳優の渡哲也から石原プロモーションを通じて、日本テレビに猿岩石への「救援物資」提供の打診を行っていたことを後年、有吉がラジオ番組にて明らかにしている。日本テレビ側が丁重に断ったため、物資の提供は実現しなかったが、猿岩石の帰国後に石原軍団開催のパーティーに招待されるなど、渡との交友関係が続いた[10]。, 幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年の10月にゴール。ゴールの模様は日本テレビアナウンサー(当時)の船越雅史が実況レポートを担当し、当初は10月19日に生放送が予定されていたが、当日に読売ジャイアンツが出場する日本シリーズ第1戦の中継が入ったため、急遽10月22日の同時間帯での録画に切り替えられた。, ゴール直後、番組から「今度は南北アメリカ大陸縦断」と提案され、日本行きかスタート地点のマゼラン海峡行きのチケットのどちらか選択するよう迫られるが、二人は迷うことなくすぐに日本行きを選択。この件について、日本テレビへ抗議電話が殺到し回線がパンクする事態となった。結局猿岩石は日本行きを選択するが、後年「帰りの飛行機の中、(日本行きを選んだことに)スタッフ全員が怒り狂って一切口を聞いてくれず、その顔は般若だった」と語っている。一方で、土屋は著書において「電波少年がお笑い番組なのに感動へ向かっていることに危機感を覚え、猿岩石は絶対に日本行きを選ぶと確信していたからこそ、予防注射をさせるなどの敢えてお馬鹿な演出をした」ことを明かしている。この時猿岩石が選ばなかった「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」の企画はドロンズに受け継がれ(後述)、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。, 猿岩石は帰国後、西武球場(現:西武ドーム)で凱旋帰国ライブを行ない(猿岩石本人には到着まで内緒)、超満員の客に迎えられた。『ゴッドタン』ドスベリサミットで有吉弘行が述懐したところによると、この時あくまで感動を味わいたかった客の前でネタを見せたが、スベるどころか怒りを買ってしまったという。, 本番組の終了後も、2007年よりシリーズ化されたDVD「我々は有吉を訴える」や、2009年の『24時間テレビ』内での企画[11]など、有吉をメインとしたヒッチハイク企画が度々行われた。, また本番組と同じく、日本テレビ系列にて放送されたバラエティ番組『有吉反省会』の2時間スペシャルに(2014年3月31日放送分)に土屋が反省人として出演した際、土屋は同番組にて司会を務めていた有吉を巻き込もうとするが、この時は逆に有吉が土屋に対して「日本縦断ヒッチハイク」を言い渡し、土屋自身の禊として「日本縦断ヒッチハイク」を決行している[12]。, 1996年10月末、電波少年の前説を担当していたドロンズ(大島直也、石本武士(現:ドロンズ石本))に突然カンペが出され、南北アメリカ大陸の縦断ヒッチハイクを命ぜられる。ヒッチハイクといえば猿岩石のイメージが強いが、実際のところ1997年大晦日にゴールするまでにかかった日数は、猿岩石の倍である1年2カ月であった。, 彼らの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。その後、入院した病院で同行ディレクターに行動を強制されたことをきっかけに一度ギブアップを宣言するが、協議の結果和解が成立し終了の危機から脱する。ブエノスアイレス州のドロレス(en:Dolores, Buenos Aires)という街では「電波少年番外編」の企画としてはねだえりかとともにドロンズを探していた両親との再会を果たし、突然の出発で顔も合わせる暇がなかった家族に対し改めて旅の出発の挨拶をする。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ1カ月近くバラエティ番組『リサスイサルサ』(es:Risas y salsa)に出演し、アメリカではキャンピングカーで旅をしている男性に、体調不良になった大島直也の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった[13]。, 同企画でも猿岩石の時と同様にテーマ曲が作られ、TUBEの前田亘輝による応援歌「君だけのTomorrow」がヒットを記録した。書籍としても企画と並行して『ドロンズ日記』全5巻が、また旅の完結後にムック本「全ドロンズ―Whole lotta Dorons with comic」が発売された。, ゴールの模様は1997年12月31日の大晦日にNHK紅白歌合戦の裏番組として生中継され、当時の紅白の裏番組としては最高視聴率である15.9%を記録。翌日1998年1月1日の元日には、特番『電波少年INTERNATIONAL14』がウッチャンナンチャンをゲストに迎えて放送されるが、ED時に「実は 進め!電波少年は本日をもって終了します」と書かれたボードを突然見せられ、ドロンズが呆然としたまま番組は終了する[14]。, 帰国後にドロンズは24時間凱旋帰国ライブを行なった(全24回だと知らされたのは1回目のライブ直後である)。その後新たにスタートした『雷波少年』にて、ロバのロシナンテとともに日本をヒッチハイクして縦断する企画に参加した(こちらを参照)。, これらの企画が終了したあと、ドロンズはフジテレビの『DAIBAッテキ!!』『DAIBAクシン!