- 欽ちゃんドラマ・Oh!階段家族!! - 欽ちゃんのドーンと24時間 - 欽ちゃん走るッ! 1 萩本欽一の妻:澄子が癌で死去. 日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズの初代監督であり、元祖・視聴率タレントといえば「萩本欽一」さんです。 そんな萩本さん(当時35歳)が「引退覚悟で記者会見に臨んだ」のは、1976年7月5日夜のこと… これには奥さんとの馴れ初めが関係していました。 「ストレスが溜まると、録画したお笑い番組をエンドレスで観る。そしてエンドレスで笑い続けると、ストレスがどっか行く」, お笑い芸人の楽しい言葉は、暗い気持ちを笑いで晴らすためのお薬になってくれるかもしれません。, 明石家さんまさん(@sanma_santaku)がシェアした投稿 – 2017年12月月31日午後11時53分PST, うつ病真っただ中、「もう死にたいです」と言った私に、当時の主治医の先生が「明石家さんまが言ってるじゃない、生きてるだけで丸儲けって。死ぬと損するよ~」と言われて、なんかもう死にたいとかがどうでも良くなった思い出があります…(笑), 【公式】未解決の女さん(@mikaiketsu2018)がシェアした投稿 – 2018年 5月月3日午前4時06分PDT, 「ディスコが大きくなるとジャスコになるよ」という意味不明な言葉を、よく思い出しては笑っています(笑), でも、「いい加減な性格は、テレビで演じているうちに本当にいい加減になってしまった」と語っているそうです。, 小籔千豊(吉本新喜劇)さん(@koyabukazutoyo_shinkigeki)がシェアした投稿 – 2018年 9月月1日午前7時35分PDT, 新人の頃、月収は平均2万円程度で奥さんと頑張っていたそう。 いきなり座長に抜擢された時、「平社員が急に社長になった感じだ」と思ったそうです。, メキシコは ネバービーンだが ソンブレロ #JICA横浜 #ルー語で一句 #メキシコ #ソンブレロ #メキシカン pic.twitter.com/xCkraWOC2w, — ルー大柴 Lou Oshiba (@louoshiba_) 2018年10月14日, 恩師・勝新太郎のことを「ビクトリーNEW太郎」と呼んでいるのを聞いた時、涙が出るほど笑いました(笑), どんなにどん底にいても、 どんなにボロボロになっても生きれば! 生きること自体がお前の輝きだ!, 今日の小昼は大好物のおはぎとようかん。 pic.twitter.com/SLJ1iuIEf6, — 萩本欽一(NHK欽ちゃんのアドリブで笑) (@nhk_kinchanshow) 2018年8月25日, 年末年始のイベントに心がくじけそうな療養中!ロバート秋山のYouTube動画で笑おう!, このサイトの専属ライター「ゆき」です。このサイトでは、うつ病に関して私が長い年月をかけて学んだこと、調べたこと、苦労したこと、嬉しかったこと…それら全てをお伝えしております。同じような悩みを抱えている方の参考になりましたら幸いです。詳しいプロフィールは【こちら】, 動物大好き!お化粧品大好き!な当サイトの専属ライター。詳しいプロフィールは【こちら】. いってみようやってみよう』が、集英社から刊行され、これもベストセラーとなった。続編がNo.6まで出版された。2010年現在は絶版。, 1982年、エポック社からボードゲーム「欽ドン!良い子悪い子普通の子ゲーム」が発売された。プレーヤー全員が投稿者となって葉書をたくさん出し、どのくらい採用されるか、そして採用されたらどのくらいウケるのかを争っていき、最後に欽ドン賞を取った人が勝ち、というルールだった。, スター誕生! - 女・おとこ - 日本一のおかあさん - オールスター家族対抗歌合戦(オールスター春秋の祭典スペシャル) - 日本テレビ音楽祭 - 24時間テレビ 「愛は地球を救う」 - シャボン玉ボンボン - 欽ドン! - よ!大将みっけ - ひまわり - ザッツお台場エンターテイメント! -近所の裁き- - 欽ちゃんのがんばる!日本大作戦 - 欽ちゃんのニッポン元気化計画 - 思い出のメロディー - 弟, 欽ちゃんのここからトコトン - ニュースワイド 欽ちゃんのもっぱらの評判 - ラジオ・チャリティー・ミュージックソン, コント55号(坂上二郎)- 常田久仁子 - 齋藤太朗 - 横山やすし・西川きよし - 三宅恵介 - 堀敏彦 - 関根勤 - 小堺一機 - 東八郎 - 東貴博 - キャイ〜ン(ウド鈴木・天野ひろゆき)- はしのえみ - 徳光和夫 - タモリ - ビートたけし - 明石家さんま - 大橋巨泉 - 黒柳徹子 - 朝加真由美 - 小川宏 - 松田朋恵 - 小林與三次 - 正力亨 - 鹿内信隆 - 鹿内春雄 - 鹿内宏明 - 日枝久, 日本お笑い史 - 欽ちゃんファミリー - 浅井企画 - おめで隊 - 佐藤企画 - 萩本企画 - 欽ちゃんのシネマジャック - 欽ちゃん劇団 - 茨城ゴールデンゴールズ - 萩本欽一の「人生ってめぐり愛だよね」, プロ野球のナイター中継放送のある時期には、放送休止の時期もあった(1972年〜197*年(詳細不明、1975年4月からの、夜のワイド番組「大入りダイヤルまだ宵の口」内のコーナーになった以前)。), なお、番組中で小堺がこのコーナーについて「『欽ドン!』のパクリです」とはっきり認めていた。, 『欽ドン! 明石家さんまさん(@sanma_santaku)がシェアした投稿 – 2017年12月月31日午後11時53分PST. 看病していた澄子さんの妹が参列し、静かに執り行われた。, ※「https://bunshun.jp/articles/-/40740」より引用, 彼女は2016年の時点で既に余命宣告を受けていたことから、ステージ4だったと考えられます。, そこで、澄子さんの癌について調べてみたものの、詳しい事情は一切明らかにされていなかったのです。, 萩本さんは文春の取材を受けるまで妻が亡くなったことや、澄子さんが癌と闘病していたことさえ明らかにしていませんでした。, 恐らく、澄子さんのプライバシーに配慮したことで、妻の存命中は癌の事実を伏せていたと思われます。, 前述した通り、萩本さんは妻の澄子さんが癌で闘病していた事実を今回まで伏せていました。, そのため、たとえ子供に病気障害があったとしても、それを無闇に公表するとは思えません。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, 【炎上】パスタ2品だけ注文の母子を侮辱!バッカスは涌谷行雲?Facebookや店名. 今回は、コメディアンの萩本欽一さんを取り上げます。 2020年10月7日、萩本さんの妻・澄子さんが死去していたことが明らかになり世間の注目を集めています。 一体、澄子さんの死因は何だったのでしょうか? 目次.

- 欽ちゃんとみんなでしゃべって笑って - キンさばっ!! 萩本、息子たち夫婦と孫、 欽ドン!(きんドン!)とは、1970年代にニッポン放送で放送されたラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』、1970年代にフジテレビ系列で放送された萩本欽一司会のバラエティ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』の略称および、1980年代に放送されたその続編シリーズの総称である。, 本項では2000年代にニッポン放送で放送されたラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤』『欽ちゃんのドンといってGO!GO!』、ニコニコ生放送で2015年に開始した『欽ちゃんのドーンとゴールド!』についても述べる。, 『欽ちゃんのドンといってみよう!』(きんちゃんのドンといってみよう)は、1972年10月9日から1979年4月6日までニッポン放送などで放送されたラジオ番組。, コント55号での活動に限界を感じつつあった萩本が、新たな笑いの可能性を探ろうと始めたリスナー参加型のラジオ番組である。専門作家や芸人ではない一般のリスナーからテーマに沿ったコントを投稿させ、それをラジオで流してよいものを選ぶというスタイルだった。元は、この直前まで同じニッポン放送の土曜日24:00 - 25:00で、1972年4月から同年9月の6か月間放送されていた『どちら様も欽ちゃんです』の中で、聴取者の投稿からコントを募るコーナーとしてスタートし、好評だったことから単独の番組となった。, スポンサーは集英社の一社提供で、萩本により番組の冒頭と終盤に「キミの心をつかむ、集英社がお送りする(した)『欽ドン』」と紹介された。, 毎回オープニングには「今日のキャッチフレーズ」、エンディングには「今日の一言」という教訓のパロディ(五七五のもの)が、リスナー投稿から選ばれて読まれていた。, 投稿作品にはその出来によって、スポンサーである集英社の雑誌名にちなんだ賞が贈られた。, 笑いをとったネタには上記の賞が用意されていたが、そこそこ良くできてはいるが面白くないネタや多数送られてきた同一ネタなどのハガキは、萩本が「キレイだね!」と言って「キレイ箱」なる箱に突っ込んでいた時期もあった。, 収録に来ていたパジャマ党のメンバーやディレクター等のニッポン放送のスタッフの声が入ることがあった。パジャマ党の存在はリスナーにも知られるようになり、投稿のネタとしても(内輪ネタ的に)使われたりした。ラジオやテレビの裏側には制作スタッフがいることを視聴者に隠さず示し、それまで邪道とされていた楽屋落ちまでも積極的に使用したことも、以後の番組制作やタレントの言動に大きな影響を与えており、画期的なことだったと評価されている。, 萩本が企図した「既成の作家や芸人とは違った笑いの発掘」という狙いは当たり、それをもとに萩本はこれをテレビ企画とすることを構想するに至る。, テレビの『欽ちゃんのドンとやってみよう!』がヒットした後もラジオの欽ドンは続いたが、1978年12月に行われた「最高のコントに10万円を出す」という「欽ドングランプリ」の企画を花道として、1979年4月6日(欽(金)曜日)に7年間の放送を終了した。なお、これより6か月後の1979年10月からは、ナイターオフ期間限定の番組として、同じくニッポン放送で『欽ちゃんのここからトコトン』(毎週土曜日18:00 - 19:00、1979年度のみ18:30 - 19:30)がスタート、1984年3月まで5期間続けて放送されていた。その中で一度「帰ってきた欽ドン」なる企画もあった。また1987年10月からのナイターオフ期間にも、『ニュースワイド 欽ちゃんのもっぱらの評判』(毎週金曜日18:00 - 20:00、19:00 - 19:30のコーナー「ニッサン オールニッポン・シリトリグランプリ」のみ全国ネット)が放送された。, 『欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤』(きんちゃんのドンといってみよう やきゅうばん)は、ニッポン放送で2007年10月4日から2008年3月20日まで、日本標準時木曜 20:30 - 20:50に放送された番組。ガリバーインターナショナルの一社提供であるため、提供クレジット上のタイトルは『ガリバープレゼンツ 欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤』となる。萩本にとっては『ニュースワイド 欽ちゃんのもっぱらの評判』以来、19年ぶりのラジオレギュラー。タイトル通り、野球関連のネタコーナーに加え、野球選手などをゲストに招いたトーク展開。構成は鶴間政行が担当。, 『欽ちゃんのドンといってGO!GO!』(きんちゃんのドンといってゴーゴー)は、2008年10月4日から2009年3月21日までニッポン放送で放送された番組。, 前番組「欽ちゃんのドンといってみよう!野球盤」に引き続き、ニッポン放送ナイターオフシーズンの欽ドン!シリーズとして、土曜 21:00 - 21:30(日本標準時)に放送された。, 『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(きんちゃんのドンとやってみよう)は、1975年4月5日から1980年3月までフジテレビ系列で放送された萩本欽一のバラエティ番組。毎週土曜19:30 - 20:54(1975年9月までは20:55まで)に放送された。, もともとは上記ラジオ番組のヒットから企画を起こし、1974年9月21日の20:00 - 20:55(土曜特番第3回。後のレギュラー放送と一部が同じ)にテレビ化トライアル番組『欽ちゃんのドンと行ってみよう!ドバドバ60分!』を放送。この番組は視聴率が一桁と振るわず、惨憺たる結果を生んだが、意外にも業界内での好評を得たことによって、翌1975年の春よりレギュラー化された。当初、初期の正式タイトルは『萩本欽一ショー・欽ちゃんのドンとやってみよう!』だった。, フジテレビ土曜夜8時枠は元々、1968年より坂上二郎とのコンビで主演した『コント55号の世界は笑う』が放送されていた枠である。55号としてはもちろん、同時に芸人(チーム名)を冠にした初のゴールデンタイムにおけるカラー放送のバラエティ番組で、体力の限りを尽くした縦横無尽のステージコントは55号人気の絶頂を決定付けることとなり、視聴率30%以上の高視聴率を誇った。しかし1969年にスタートした後発の『8時だョ!全員集合』の激しい追い上げによって、1970年4月に『コント55号のやるぞみてくれ!』にリニューアルするも失敗、放送期間1年11ヵ月をもって番組は終了してしまう。以後、ドリフ天下のバラエティ界のなか、同時間帯におけるレギュラー版『欽ドン!』のスタートは、萩本個人としても初の企画・主演番組であることもあり、相当の気合を込めて制作された。アシスタントとして当時新人の香坂みゆきが出演している。, なお、1977年4月 - 8月と1978年4月 - 8月、1979年4月 - 8月までは、萩本の企画構想期間として同番組は一旦中断。1977年4月 - 8月は、伊東四朗らをメインキャストとした同じくプロデューサー常田久仁子・ディレクター三宅恵介の『がんばれ!ピンチヒッターショー』を、1978年4月 - 8月は『土曜グランドスペシャル(第1期)』もしくは『ニューヤンキース』を、1979年4月 - 8月は『土曜グランドスペシャル(第2期)』(厳密には枠名称は無し)をそれぞれ穴埋め番組として放送していた。これは、視聴率へのこだわりが強いうえに野球ファンだった萩本が、自身の冠番組をナイター中継の裏では絶対にやらないという強い意向を持っていたからである。そのため、以後の萩本のプライムタイムでの冠番組は、すべて21・22時台に放送されており、19・20時台に放送されたものはいずれもプロ野球シーズンオフのみである(1988年4月 - 6月に放送された「欽ちゃんの気楽にリン」(日本テレビ、水曜夜20時 - 20時54分)を除く)。なお『土曜グランド』(第1期)では『欽ドン!』ファンのために、1978年6月17日・同年7月29日・同年8月19日3回に渡って、『欽ちゃんのドンとやってみよう!○月編』(『○』には放送月が入る)が放送されたが、『土曜グランド』でレギュラー的な存在のニューヤンキースは出演しなかった。, 綿密に計算されたコント中心の『全員集合』と異なり、『欽ドン!』は視聴者からのハガキ投稿を中心に、萩本が得意とするアドリブを主体にした番組構成である。NGでも面白がって放送してしまう手法は、ディレクターの三宅恵介をはじめ欽ドンを担当したスタッフや作家陣が多数参加し後の土8枠を彩る『オレたちひょうきん族』への礎となり、以降同枠に続く『めちゃ×2イケてるッ!』をはじめとするフジのバラエティ番組の伝統的手法となる。番組中、市井の一般人にタイトルコールをさせたり、萩本が股旅姿で観光地などに現れ、一般人を模造刀で斬るふりをして一般人が「ウワー」などと叫んで倒れるという場面が度々登場する。この手法は後に、『ひょうきん族』の「タケちゃんマン」コーナー冒頭の、一般人が空を指さして「あっ、タケちゃんマンだ!」と叫ぶ場面に受け継がれている。, 第1期のオープニングはかなりの異色で、萩本では無く、外国の女性が出て来るフィルムが映し出され、「アレッ?」と視聴者が思った所で、女性が「キンド〜ン、キンド〜ン…」と呟く演出になっていた。, 初回の視聴率は17.1%。放送後、スタッフの電話によって初回にしてはいきなりの高視聴率の結果を知った萩本は、受話器を握り締め涙したというエピソードがある[4]。, 番組で採用されたハガキには、面白かった順にバカウケ/ややウケ/ドッチラケのランク付けをされていた。なかでも「バカウケ」は当時の流行語にもなった。これは芸人の隠語を一般向けに使用したものと言われ、『欽ドン!』の代名詞「良い・普通・悪い」へとつながったと見る者もいる。, 本番組の放送期間中の1977年1月 - 1979年1月に同じフジテレビ系で同じ土曜日に放送されていた『ヤッターマン』に登場するコックピットメカ「ちんちろりんのドッチラケ」は、本番組に由来している。, この番組で、萩本は前川清とコント54号としてコンビを組んだ。それまでの前川は「お笑い」に縁がないクールな二枚目イメージで売っていたが、萩本にお笑いの才能を引き出され、大成功を収めている。また、前川がリードボーカルを務めていた内山田洋とクール・ファイブもレギュラー出演。持ち歌を歌うだけでなく、歌の前の萩本とのトークコーナーで萩本から“イジられる”ことにより、前川以外のメンバーのキャラクターも、より広く親しまれることとなった。, 第1期継続中の1977年1月1日には、初めて放送が元日と重なった事、更に裏で『全員集合』(通常放送)が編成された関係上、当時ドリフもレギュラー出演していた正月恒例『第14回新春スターかくし芸大会』が翌々日の1月3日放送となったので、本番組の元日特別版を放送した。, 番組は2部構成で、19:30 - 20:54の第1部『欽ちゃんのドンとやってみよう!元日おたのしみ特集』では、萩本とレギュラーのクール・ファイブがご挨拶を行い、研ナオコ・和田アキ子・内藤やす子らとカルタ取りを行ったり、同局放送中の『相性診断!あなたと私はピッタンコ』(関西テレビ制作)を萩本らで行うなどの内容。そして21:00 - 22:48[5]の第2部『お正月!欽ちゃんのまだまだやってみよう!』では、「おめでたコント大会」と銘打ったコント集を、西城秀樹・森昌子・石川さゆりらや、中村メイコ・神津善行夫婦と共に行った。, 余談だが、翌年(1978年)の元日は、前日(1977年12月31日。土曜日)に『第19回日本レコード大賞』放送のために休止になった『全員集合』の差し替え版が編成される関係上、『かくし芸』は1月2日放送となったため、フジテレビは21:00の『アッ!はぷにんぐ・ニューイヤー』を除き、18:00以降は全て通常番組が編成、そのため萩本司会の『オールスター家族対抗歌合戦』も放送されたので、萩本は2年連続して元日に持ち番組を放送できた。また、前述の『レコ大』が放送された12月31日のフジテレビでは、19:30 - 20:54に子供向け年末特別番組『'77わんぱくチビッコ大集合!』が編成されたが、この番組にも本番組から萩本と前川が出演した。, 『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(きんドン よいこわるいこふつうのこ)は、1981年4月6日から1983年9月12日まで、フジテレビ系列にて毎週月曜21:00 - 21:54に放送されたバラエティ番組。, よくある家庭をベースにしたセットで前番組の人気コーナーの「母ちゃんと子供の会話」と「三段落ち」を組み合わせたような内容。父親役の欽ちゃんに息子の「フツオ」「ヨシオ」「ワルオ」との会話で笑いをとった。会話は視聴者からの投稿がベース。, バラエティ番組であるため地上波での再放送は行われなかったが、CSでは開局間もないフジテレビ721で一部再放送が行われていた。2015年11月12日よりファミリー劇場にて再放送が行われ、6週に渡り2回分放送される[6]。また事前番組として、お笑い好きの喫茶店のマスターとして大谷ノブ彦(ダイノジ)、喫茶店の客として、萩本の番組を始め多くのバラエティー番組のディレクターを務めた三宅恵介、萩本の全盛期を知らない壇蜜が出演し、萩本やそれ以外の芸人、昔のバラエティー番組の事を語る「燃えよ欽ちゃん」が10分番組として6週に渡って放送される。, 前身となった『欽ちゃんのドンとやってみよう!』が一応の成果を収めて終了し、次の段階を伺うべく、再びラジオの世界に戻った萩本がニッポン放送で開始した『欽ちゃんのここからトコトン!』内で、再び聴取者からのハガキ投稿コーナーを開始。ある日の放送で、ラジオのスタッフにいた若手作家によって放送台本の片隅に、その週のテーマとして何気なく書かれた「良い子悪い子普通の子」という文字を見て、萩本は「コレだ!」と次への構想をひらめく。これが人気番組、最初の第一歩となった[4][7]。, 早速企画書にまとめあげた萩本は、フジテレビ以外の各局を駆け巡った。しかし「放送枠がない」「次の改編に間に合わない」という理由で却下されてしまい、フジテレビに最後にかけあった[4][7]。, 当時、萩本はフジで『欽ちゃんの9時テレビ』(1980年10月13日 - 1981年3月23日、月曜夜9時放送)というバラエティ番組の司会を担当していた。「どか〜ん!のど自慢」のコーナーに多少の人気が集まっていたものの、視聴率的には振るわなかったことから、番組の降板を申し出ていた。しかし、局の編成担当者は「元々、フジの月曜夜9時は、開局以来20年間不振の枠なので数字のことは気にせずに。それよりも月9枠は、向こう10年は欽ちゃんに任せたから」と、萩本にとっては何物にも変え難い信頼の言葉を得ていたこともあって、一瞬のひらめきから「スグにでも番組化できる」と自信を持った萩本と、1981年の春改編にも間に合うかというフジの具体的思惑が一致したことから、番組は開始された[4]。, この当時の萩本は、『欽ドン!』とテレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!