この子はよく泣いて、子守の私を苛めます。 自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか? その後、義父母や夫がよく口にする地区をネットで検索してみると、全て部落に当てはまる地区で自分が住んでいる地区も昔はそうだったと知りました。 子供の頃楽しかったお盆休みが来ても、何もうれしくは無い。 親の御飯がすむまでは なお、差別的な認識は全くない状態でこの文章を作成しましたが、何か問題があれば質問自体を削除して頂けるように管理人さんにお願いするつもりです。, 多くの方が現代の事柄を中心に回答されているので、私は近世地方史(加賀藩)研究者としての立場から、江戸時代の実態について少し述べてみます(ただし、こうした差別は江戸時代以前からあったと考えられています)。 どうしたいこりゃ きこえたか, 来いよ来いよと こま物売りに そういう境遇が持たしたら性格かもしれませんが、実際問題

『放送禁止歌』を書かれたテレビ・プロデューサーの森達也さんが大手のテレビ局で資料を調べていると、「竹田の子守唄」に関する「在所=未解放部落」と書かれてた文書を見つけたそうです。 良く知られた=竹田の子守唄=と言う曲なんだが・・ 今回、此の曲をcevioで作ってみた、緑咲香澄さんメインのボーカルで。 で・・あえて良く知られた歌詞も合わせ、原曲の歌詞をほぼ再現 メロディのみ赤い鳥のものにして拵えてある。 私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。 夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。 普通に・・・・と言う気持はよくわかります。 付き合いはそこからです。 その後出産の為辞めることとなりましたが、会社の上司から夫のことをかなり詳しく聞かれた上でそれとなく言われました。 付きあってから度々悩まされたのは、他人に対して暴言を吐いたり道路の真ん中で車を止めて怒ったりすることでした。 今、人生にとても悩んでいます。こどもが小さいので母子家庭は厳しいかもしれませんが、穏やかな暮らしがしたいです。 こうした差別は明治政府によって撤廃されたのですが、そのころに作られた壬申戸籍では「新平民」と記載されてしまいました。そのため、戸籍を見ると部落の出身であることがすぐに分かってしまい、色々な悲劇を生み出すこととなりました。 どうしたいこりゃ きこえたか, 早よもいにたい あの在所こえて 何かがおかしいと思ってきたのは結婚してからのことです。 江戸時代までの日本には仏教の影響もあって四つ足の動物を食べる習慣がありませんでした。また、人や動物の死骸に触れることは忌み嫌われていました。 かつて赤い鳥が唄っていた「竹田の子守唄」が放送禁止歌になっているという。歌詞を何度も読み返してみたが、例えば障害者に対する差別や卑猥な言葉等が入っているとは思えない。なぜこの曲が放送禁止なのか、理解出来ない。いったいどう 奉公先の親から叱られないかと心配で、やせる思いです。 ご一読されるとよいのではと思います。(urlで、私が読んだのは下の本なのですが、上の文庫版も同じ内容のようですね) ちなみに僕自身は『部落』が何なのかという認識が薄く、周囲の人たちが言う事を全く気にせずに(詳しい事を知らずに)普通にお付き合いをしてきた経緯がありますし、今もそのような認識をもっています。 出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。 またも竹田のもんば飯 私が少し調べた結果は義父が部落出身のようです。 多少危険である事は覚悟する必要があると思います。 竹田の子守唄(たけだのこもりうた)とは、京都府の被差別部落に伝えられた民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽の歌曲である。日本のフォーク、ロック歌手たちによって数多く演奏されている。, この曲は複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく部落出身の学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている[1]。明治時代中期の発祥とされるが題名にある竹田地区の住民が実際に唄っていたのは昭和初期に10代だった世代までである[2]。, 1965年1月、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品、住井すゑ原作の『橋のない川』で尾上和彦が多泉和人(おおいずみかずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり主題に即した曲を使おうするも[3]、尾上は部落問題を肌で感じることができなかったためそれを得るために、別の仕事で訪れたことのあった被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母から情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったもので[4][5]、それが合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まりその1人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった[6]。尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったので、「竹田の子守唄」とされたがそれ以前は題名が付いていなかった[7]。きちんとした楽譜もなく一番と二番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦悩にある中に強く暖かい人間性を内在させていて、赤いサラファンに共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である[8]。唄の後半にロンドンデリーの歌のような非常に豊かな音の広がりも加えた四分の二拍子で書き上げたが、発表後に複数の関西の研究者がこの唄は自分で採譜したと主張、これについて尾上は唄を聞かせた女性はその後、人前で披露することはなく彼女の唄は発表されたものよりテンポが速い十六分音符でなければならないと否定している[9]。, 後藤悦治郎は関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で大塚孝彦、高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴いて本作を初めて知って感銘を受け、この一曲で英語の歌ばかりだったと不満が発散して後藤が率いていたフーツエミールは解散[10]。後藤は新結成した赤い鳥のスタート当初は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱、グランプを飾り、デビュー作としてシングルレコードを発売した[11]。, 他のフォーク歌手が唄うのを聴き、赤い鳥も唄うようになった。フォークシンガーたちに広まる前に歌唱していた合唱団「麦」では唄が被差別部落のものであると紹介していたがフォーク界に広まるにつれて「竹田」の正しい読み方や唄の出所はわからなくなっていた[12]。赤い鳥側も暫く、この唄の由来や意味も理解しておらず、題名の竹田も大分県竹田市のことだと思っていた[13]。本作の替え歌である赤い鳥のメジャーデビュー曲『人生』をJASRACに登録する際には作者不詳で申請するように言われるも、既に他の人も歌っているのに無視することはできず作者がいるはずと後藤の高校のクラスメイトの橋本正樹と起源に迫ることにした[14]。赤い鳥が本作を唄うたびに「竹田」とはどこか尋ねられても濁していたこともあり、1971年4月から発祥を捜し始め、歌詞に雪があるため大分県竹田市ではなく「よう泣く」の「よう」があるのは関西ではないかと伏見か氷上郡市島町の竹田かもしれないと見当をつけた[15]。捜し続けて2か月経過、ある女性から歌詞の「在所」は京都では未開放部落を指すと教えられ、橋本は「大きな楔を打ち込まれたように言動が止まった」と感じ、それから1970年出版の『京都の民謡』(音楽之友社)に本作が京都市伏見区竹田の唄だと明記されていることを知り、確信した[16]。, 橋本が捜し当てた事実を知らされた後藤は今まで知らなかった「久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし またも竹田のもんば飯」の歌詞を入れて唄うことを決意、最初に歌唱したのは1971年9月の毎日放送の深夜番組だった[17]。1971年12月発売のアルバム『スタジオ・ライブ』で「久世の大根めし…」の歌詞を入れた本作を赤い鳥としては初めて収録した[18]。, 1971年2月5日にシングル・カット、A面に本作、B面に『翼をください』を収録して3年間でミリオンセラーとするが、被差別部落絡みの楽曲と知った日本の放送局は慌てて自主規制[19][20]、人気だった赤い鳥へ歌唱曲の中から外して欲しいと理由を告げずに放送局から複数回要請され[21]、レコード会社に動揺が走り、採譜者が編曲著作権を主張したこともあってレコーディングが避けられるようになり、いわゆる「放送禁止歌」として長い間聴く機会が減少する[22]。, 要注意歌謡曲指定制度には指定されてはいなかったとされ[23]、2002年に大阪で開催された人権集会ではNHKの人権問題に熱心なベテラン局員は、過去に同局で放送禁止に指定されたことはなく後藤もNHKからそういった扱いは受けなかったとしている[24]。森達也が入手した1986年のフジテレビ番組考査部の議事録とみられる文書には、部落解放同盟の見解として作られ唄われた理由や背景をよく理解してくれるなら放送可能とされたが、実際に理解することは不可能なので現実的には放送できないことが書かれており[25]、放送禁止歌であるとの認識を既成事実としたメディアもあった[26]。森は唄の意味を理解することはそう難しくないはずだが、あっさりと不可能と結論付け、理解することとは何なのかすら思考していないことが文からは汲み取れ、理解するの主語を視聴者に置き換えても結論としてはあまりにも早計だと否定的である[27]。, 森達也はかつて教科書に本作を掲載していた複数の出版社に取材をすると、対応は慎重で匿名を条件に応じ、部落問題も理由の一つだが他にも掲載されなくなった作品は多数あるため断定するのは差別をまた生み出してしまう、とにかく非常にナイーブな問題だと捉えていることが各社共通しており、旋律のみを掲載しているある一社は、歌詞がない理由を何度尋ねても旋律だけでも十分に素晴らしい曲だと判断したと要領を得ない答えしか返ってこなかった[28]。, 部落解放同盟の抗議があったため放送しなくなったとも囁かれたがそのようなことはなく、京都府連や竹田地区の解放同盟の者は長らく放送禁止になったことすら知らず、かつては竹田地区の唄であることも知らない者もいた[29]。, だが、元の旋律と歌詞とは大きく違う唄として広まったことに竹田地区の住民はかなり困惑、赤い鳥メンバーもヒットしてから被差別部落の唄という事実を知ったことで動揺した[20]。, それは元唄には「もんば飯」とあり、もんばはオカラ、飯は精米の破片をかき集めた小米でそれを部落内で食べていることを意味する歌詞で、尾上の前で歌った女性が竹田の恥をさらしたと後悔[30]、1972年1月に京都勤労会館で開催したフォークコンサートに赤い鳥が出演した際、橋本は先述の『京都の民謡』を編纂した日本音楽研究会メンバーでもあった尾上と知り合い、彼に唄を教えた女性を息子経由で連れてきてもらったが、彼女に「久世の大根めし…」の箇所は歌わないでほしいと懇願され、周りで「あの唄は誰が教えたのか」と言っている人がいたことや、かつていつもああいった食事をしていたわけではないがどうして今になって部落の食生活を唄う必要があるのか、歌詞で竹田だけでなく他の部落の場所もわかってしまうと唄ったことを後悔、自分の生まれを晒すことを憚る世代の人間であり、後藤は伝承している人の名前でJASRACに登録したかったが、それも断られた[31]。後藤は女性の言葉で腰が引けた他の赤い鳥メンバーから非難され、相手を苦しめるわけにはいかず、彼女の息子たちと話し合った結果「勇気をもって唄っていってほしい、自分も応援する」と言われ、今後も唄い続けることになったが、若さゆえ突っ張って生きていたことで人を苦しめてしまった自分に後藤は半分後悔した[32]。尾上も問題とされた歌詞の削除を求められたことがあり、また元唄と旋律が違うとしてJASRACに本作の補作者として登録してもらおうと申請するも却下されており、当時のJASRACは民謡を十把一絡げにしていて著作者として登録する考えがまだなかった[33]。, 1974年に赤い鳥は解散するが、本作だけが理由でないにしろ若いメンバーたちに「歌うとは何か」と、大きな問題を突きつけた[21]。規制は1990年代に緩和され、赤い鳥の解散後に結成された紙ふうせんを始め、多くの歌手によってカバーされている[22]。, 各地に色々な歌詞が伝わるが、大きく分けて、広く唄われる歌詞と、元唄の歌詞がある。広く知られた歌詞の「盆がきたとて なにうれしかろ 帷子はなし 帯はなし」は愛知県の子守唄からとられ、高石ともやが『日本の子守唄』(松永伍一、紀伊國屋書店)で見つけた歌詞を入れて唄ったもの[34][35]。藤田正は愛知県の歌詞を入れたことで本作の特異性は際立ったが、唄の多様性を見えにくくしてしまった面もあるとしている[36]。, 「はよもいきたや この在所越えて むこうに見えるは 親のうち」は少女が早く在所を越えて向こうに見える親の家、つまり一般地区に少女宅があり一般民である彼女が部落内で子守をしている時代背景的に不自然な歌詞に見える[37]。他地域の部落にも同じ唄が伝わっているが、在所は一般地区を指すこともあり意味が逆転する説[38][24]、部落内の富裕層が貧しい家に守り子を頼む習慣があり、そういった少女が赤子をあやしながら部落外に出て振り返ったときの心情とする説もあるが[39]、それだと唄の持つ広がりや望郷の思いが狭まることや元唄にある病に臥せっている父親を案じるニュアンスも変わってしまう[40]。それに対して、歌詞の整合性を気にすることにどれだけの意味があり、それよりも浮かんでくる情景をそれぞれの心情風景を重ねることで十分だとする意見もある[41]。被差別部落を意味する言葉があるため放送されなくなったものの、森達也はそれだけでも短絡的で論外であり、在所が部落でも部落外を意味していても構わないが、仮に一般地区を指しているなら放送禁止の根拠の論外さすら意味を失ってしまい、文法的矛盾に気付くことは誰でも可能で難しい理屈でもない[42]。誰も考察や見つめ直すことがなくメディアも何をやってきたのかと批判した[42]。藤田正も「愛情をもって温かく検証されることなくメディアから締め出された」としている[43]。, なお、今井正監督版の映画『橋のない川』(1969年公開)では「穢多とちがう在所者」というセリフがあり、明治天皇崩御の時期の奈良県の小森部落での用法という前提ではあるが、明確に被差別部落に対置する「良民」の居住地区として「在所」の語を用いている。, 元唄で繰り返しある「どうしたいこりゃ、きこえたか」は竹田でしか見られない言葉遣いで、暑さ寒さ関係なく子の世話をしないといけない守り子たちの社会や親に対する口説きや批判とされる[44]。, 1番 地区内・地区外との通路, 土方が差別用語だというのだ。「聞こえてくるよ、あの唄が、働く土方のあの声が、貧しい土方のあの声が」という箇所だ, テレビのディレクター出身だけあって、カットも編集もズームも効いている。しかし、ここまで読ませたのはやはりテーマがよかった. 母は時々物を買っていて、私と知り合う2年前から夫を知っていました。 お父さん帰ったら買うてはかす 人を威圧する性格が見受けられます。

『手紙』, 高瀬川の野田橋

向こうに見えてるのは親の家なのに、こんなに近くても奉公だから帰れない。, ねんねしてくれ おやすみなされ しれませ...続きを読む, 僕は北海道出身です。 最後まで読んで下さってありがとうございました。, 悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。 出来れば御実家のご両親にもきちんと相談されて、考えうる 夫はそれを浮気だと勘違いして、会社に怒鳴りこみの電話をしてきました。しかも妊娠初期の事でした。 本当にショックでした。 でも、墓場まで持って行こうとした夫が許せません。 出会った当時、夫は実家にルートセールスで度々来ていました。 様々な理由でTV,ラジオなどから"放送禁止"の刻印を押された(押されていた)楽曲…|ジャパニーズポップス|HMV&BOOKS online コンビニ受け取り送料無料! Pontaポイント使えます! 支払い方法、配送方法もいろいろ選べ、非常に便利です! 参考URL:http://7andy.yahoo.co.jp/books/search_result?title=%CA%FC%C1%F7%B6%D8%BB%DF%B2%CE&writer=%BF%B9%C3%A3%CC%E9, 悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。 それは、私の仕事用携帯に職場の男性のアドレスがあっただけのことでした。私的なメールは一切しておらず、上司から同僚まで全ての電話番号とアドレスが入っています。 私に話していたら結婚は迷ったかもしれない。 「竹田の子守唄」は私たちが知っているのは学生の頃、フォークグループの赤い鳥がヒットさせて知った曲ですが、その後放送禁止歌になったそうです。(現在は禁止歌にはなっていないようです。 早く奉公の期間が終えて、奉公しているこの場所から、親の住む家に帰りたい。

この事案からまったくかけ離れた所で生活している物が どうしたいこりゃ きこえたか, 守りが憎いとて 破れ傘きせて 著者はまず竹田の解放同盟の関係者たちから、「子守唄」と「守り子唄」の違いを聞かされる。「子守唄」は幼児を寝かしつけるための歌だが、「守り子唄」は労働歌。『竹田の子守唄』はその「守り子唄」なのだという。そのうえで原曲を聞かされた。 それなのに純粋な気持ちでずっと夫を思ってきたのに隠し通そうとしている夫は裏切り者です。大嘘つきです。 どうしたいこりゃ きこえたか, 久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし 私にも暴言や暴力(年に数回)があり、何度も別れようと思ってきました。 簡単にはいきませんが、何も考えずに生活しようとしても夫や義父が何か言動を起こす度にうんざりしている自分がいます。 輪の中に身を置くという事で、私は単なる個人の人格だけの 違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。 3番 かつて赤い鳥が唄っていた「竹田の子守唄」が放送禁止歌になっているという。

お父さん病気で寝てござる まとまりの無い文章ですみません。 毎週夫の実家に行くごとに義父母から親戚の職業を耳にしてきましたが所謂部落の方が多い職業についており、部落の方と結婚している人がとても多いのです。 4番 そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が 2003年8月の後半に、高野山で「第34回部落解放・人権大学講座」という、人権に関連する様々なテーマを扱う規模の大きな催し物が開催された。, 「竹田の子守唄」は、今で言えば、小学校一年から六年ぐらいの主に女の子が、奉公に出され、奉公先の赤ちゃんをおぶって、お寺や神社の境内をあやして歩いた時代に生まれた歌です。それは明治、大正、そして昭和の初めあたりの頃だと言われています。, その先に、赤い鳥の「竹田の子守唄」がどのようにヒット曲になったかをお話ししなくてはなりません。, そのフォークの人たちも「竹田の子守唄」を耳にします。当時、後藤悦治郎さんもまた、日本にこんなに美しい歌があったのかと驚いたアマチュアのフォーク・シンガーの一人でした。後藤さんは、のちに赤い鳥のリーダーとなる人物です。当時のフォークの人たちは、欧米の歌を英語でうたうことから出発しました。それが六十年代の中頃からでしょうか、「日本の歌を再発見し、作りだそう」という気運が生まれてきます。「竹田の子守唄」は彼らによって「発見」され、京都のフォーク・サークルでも有名な歌となっていったのです。, そこで彼は、故郷を捜し始めます。結果として、その故郷が京都だということがわかりました。それも、後藤さんと一緒に故郷探しをしてくれた友人が、京都のある女性から、歌の中の「在所」とは京都では被差別部落のことだと指摘されたのです。, 人権を尊重するのであれば、私たちメディアの人間は、差別に苦しんできた人たちの美しい結晶を進んでオンエアすべきはずなのに、なかなか腰が重い。加えて「在所」という一つの言葉すら、調べもしないで間違った判断を下してしまう。これは、二重の差別と言えるんじゃないですか? とても残念なことです。, 「ねんねーんころりよ〜」で知られる「江戸の子守唄」は、江戸時代の後期に日本全国に広まった歌のようですが、今聴いてもらいました、くどき歌、なげき歌といった内容の子守唄(正しくは、守り子唄)は、江戸末期から明治時代にかけてたくさん作られ、昭和の大戦が終わるあたりで役目を終えた歌のようです。「竹田の子守唄」も、その中の一つ、というわけです。, 被差別部落の人々や、苦難の上に生きてきた人々の中にこそ、正当な民衆文化が花咲くのだと断言してもいいと思います。というのは、私はポピュラー音楽が専門ですが、ジャズでもブルースでも二十世紀のポピュラー音楽における画期的な表現は、貧しく差別を受け、流浪の旅をし、大変な苦労をして、常に人間とは何かを問うた人たちの中から生れ出たからです。, Beats21 Memorabilia2001:from Best10 to Best1, 魂は踊る---名作『デラシネ・チンドン/ソウル・フラワー・モノノケ・サミット』に寄せて(プロデューサーズ・ノート).