文学散歩-8-1 二葉亭四迷旧蹟 2月初めの日曜日、まだ所々に一昨日の雪が残っている冬晴れの中、四谷の二葉亭四迷旧蹟を訪ねた。旧蹟と言っても説明版が残ってい… ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 小説家、翻訳家。本名長谷川辰之助。尾張藩士の子として江戸に生まれる。東京外国語学校露語部中退。坪内逍遙を知り文学への志向を強め、明治二〇年(, 『坪内逍遙・内田魯庵編『二葉亭四迷』(1909・易風社/復刻版・1975・日本近代文学館)』. | また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 『浮雲』(うきぐも)は、二葉亭四迷の長編小説。角書「新編」。第1編1887年6月20日、第2編1888年2月13日、金港堂刊行。第3編は『都の花』1890年7月から8月まで連載。合本、1891年9月。 本... 本記事では、小説家・村上春樹の短編小説集を紹介します(全13冊)。 『中国行きのスロウ・ボート』 リンク 青春の追憶と内なる魂の旅を描く表題作ほか6篇。著者初の短篇集。 引用:Amazon「内容紹介」 1983. 浮雲 (岩波文庫) 作者: 二葉亭四迷,十川信介 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2004/10/15 メディア: 文庫 クリック: 39回 この商品を含むブログ (22件) を見る 前回のレビューで「浮雲」の講釈を垂れさせていただきましたが、何度も申しますようにこの作品はすごかった。 No reproduction or republication without written permission. (function(b,c,f,g,a,d,e){b.MoshimoAffiliateObject=a;b[a]=b[a]||function(){arguments.currentScript=c.currentScript||c.scripts[c.scripts.length-2];(b[a].q=b[a].q||[]).push(arguments)};c.getElementById(a)||(d=c.createElement(f),d.src=g,d.id=a,e=c.getElementsByTagName("body")[0],e.appendChild(d))})(window,document,"script","//dn.msmstatic.com/site/cardlink/bundle.js","msmaflink");msmaflink({"n":"浮雲 (新潮文庫)","b":"","t":"","d":"https:\/\/images-fe.ssl-images-amazon.com","c_p":"\/images\/I","p":["\/51bc8JTLD7L.jpg","\/51m2zO3KnUL.jpg","\/41Vz7S%2BldlL.jpg"],"u":{"u":"https:\/\/www.amazon.co.jp\/%E6%B5%AE%E9%9B%B2-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BA%8C%E8%91%89%E4%BA%AD-%E5%9B%9B%E8%BF%B7\/dp\/4101014035","t":"amazon","r_v":""},"aid":{"amazon":"1241436","rakuten":"1241425","yahoo":"1414847"}}); 当時の世間では、文学は軟弱者の仕事と思われていたため、父親から「くたばってしめえ!」と怒鳴られたことが「二葉亭四迷」という筆名の由来になりました……, というのは有名なエピソードではありますが、実は、これは巷間の流説であり、二葉亭四迷自身が『予が半生の懺悔』という回想録の中で否定しています。, 剰あまつさえ、最初は自分の名では出版さえ出来ずに、坪内さんの名を借りて、漸やっと本屋を納得させるような有様であったから、是れ取りも直さず、利のために坪内さんをして心にもない不正な事を為させるんだ。即ち私が利用するも同然である。のみならず、読者に対してはどうかと云うに、これまた相済まぬ訳である……所謂羊頭を掲げて狗肉を売るに類する所業しわざ、厳しくいえば詐欺である。 © 2020 レキシル(Rekisiru) All rights reserved. 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, …書きことば(文)を話しことば(言)に一致させようとすること,また話しことばに準じた文章(言文一致体)をさし,とくに,日本の明治以降のそうした試みを,言文一致運動という。口頭の言語と,文字に書き記すばあいの言語とは,それぞれ特色があって,表面の姿では両者一致しないのがむしろ普通であるが,ことに日本では口頭言語の変遷とは別に文字言語が独特の発達をした。…. No reproduction or republication without written permission. 月初めの日曜日、まだ所々に一昨日の雪が残っている冬晴れの中、四谷の二葉亭四迷旧蹟を訪ねた。旧蹟と言っても説明版が残っているだけとのことで見つけられるかがまずは焦点であった。, 四ツ谷駅を降り立ち、四谷見附の交差点を渡り、予め地図で確認していた横丁を入る。電信柱に四谷一丁目, 番地に辿りついた。インターネットで確認していたマンションが見えた。その玄関辺りに説明版があるかと探したがない。少々焦る。仕方なく少し行くとマンションの建物の隙間に小さな説明版を見つけ、安堵の胸を下ろした。説明版によると二葉亭四迷が明治, 年間、東京外国語学校ロシア語科に入学し寄宿舎に入るまで過ごしたところで、彼の父の実家である水野邸が建っていたとし、彼の経歴が簡単に記されていた。それによると, の中に生まれ、少年期に政治色の濃いロシア文学の影響を受け、東京外国が学校ロシア語科に入学するが後に中退し、坪内逍遥の指導で創作を始める。明治, 年、日本で最初の言文一致体文章の小説「浮雲」を発表し、さらに「あひびき」「めぐりあい」などのロシア文学を翻訳するなど、日本の近代文学の先駆けとなったとあった。, そのままさらに進んでいくと公園があった。四谷見附公園である。中央に冬枯れの大木が聳え立っていたがプラタナスの大木とのことであった。また、字がかすれている説明文を何とか読んでみると、「江戸時代に市ヶ谷見附、牛込見附、四谷見附という城門があり、ここは四谷見附に由来し、, 年長州藩主毛利長門守秀就に命じられて築城された。近くの麹町は国府路に由来し、国府路とは、武蔵国の国府, 年、皇太子の渡欧に際して一般公開された。」道路を挟んで前には若葉東公園があった。公園を抜けると目の前に学習院初等科が門を閉ざしていた。, そして、若葉東公園の前には迎賓館の広大かつ絢爛たる庭園と建物が下写真に示す陽に照り輝く囲いの中に見え隠れしていた。, その囲いに添って右に曲がると紀国坂に差し掛かった。小泉八雲の「怪談」の「狢」の冒頭にこの坂が登場することは有名である。真昼間の晴天の日、そんな恐ろしい怪談の面影は微塵もなかった。, 迎賓館は和風迎賓館に続き、どこで終っているのか分からないまま進んでいくと紀国坂を降り切ったところに九郎九坂と弾正坂があり、どうも由緒ある坂らしい。調べてみると九郎九坂, は、江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。また、弾正坂は、西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられたとのこと。この両坂はここで交わりまた坂の上の青山通りで豊川稲荷別院を挟んで交わっていた。, 豊川稲荷はさすがに立派で大勢の参拝客で賑わっていた。丁度昼食時だったので、境内内の蕎麦屋で暖かい卵とじ蕎麦を頼んだ。しかし、蕎麦は全腰がなく味も何かぼんやりしていてかなり不満だった。まあ、こういうところでは仕方が無いかもしれない。, 青山通りを渋谷の方に向かい、青山一丁目の交差点で右に折れ、東宮御所から信濃町近くを通り、迎賓館と赤坂記念館の間の本日最後の名のある坂、安珍坂, を下って無事四谷見附公園に戻ってきた。安鎮坂の名は、かつて坂の前にあった安藤左兵ヱの屋敷内に安鎮大権現の社があったことに由来し、後に安珍坂と書くようになったものである, 。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説ある。この地は昔、, ・権田隼人なる者の屋敷地だったとも、あるいは権田丈之助、権田小三郎とその組下の組屋敷だったともいわれるとのこと。. 作家名: 二葉亭 四迷: 作家名読み: ふたばてい しめい: ローマ字表記: Futabatei, Shimei: 生年: 1864-04-04: 没年: 1909-05-10 ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 文学散歩-8-1 二葉亭四迷旧蹟 2月初めの日曜日、まだ所々に一昨日の雪が残っている冬晴れの中、四谷の二葉亭四迷旧蹟を訪ねた。旧蹟と言っても説明版が残ってい… 二葉亭四迷は"I love you"を「死んでもいいわ」と訳したのか? 二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)が、”I love you"(アイラブユー)を「死んでもいいわ」と訳したというハナシがある。翻訳を学ぶ人間が一度は耳にしたことがあるであろう逸話である。 江戸[没]1909.5.10. 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 二葉亭四迷(7歳)、名古屋藩学校「明倫堂」卒業。東京に、麹町区飯田町に住む。 1875(明治8)年5月 二葉亭四迷(11歳)、松江に。内村友輔から漢学を学ぶ。 1878(明治11)年5月 二葉亭四迷(14歳)、再び東京に。「森

前回のレビューで「浮雲」の講釈を垂れさせていただきましたが、何度も申しますようにこの作品はすごかった。そりゃーもう、すごかった。, いやお前、すごいすごいって一体何がすごいのさ? と、そうお思いのことでございましょう。ということで、引き続き「浮雲」について講釈垂れさせていただきます。, この作品のあらすじは前回のレビューをご覧いただくこととして、本書を読んで坪内逍遥がおったまげ、白旗を揚げたその理由について考えてみましょう。, 二葉亭四迷は本書を書く前に、ある雑誌に「小説総論」というエッセイを書いています。このエッセイは逍遥の「小説神髄」を踏まえたうえで四迷自身の小説観を表現したものなのですが、こんな文章で始まるのです。, 「凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰れを重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷しくいわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。」, つまり、小説には形(フォーム)と意(アイデア)があると。形というのは、たとえば文体のことであり、表現方法のことでしょう。一方で意とは物語のテーマのようなものを言うのだと思うのですね。, で、四迷は「大事なのは形より意だ」と言っているのです。では意(アイデア)とは一体なんでしょう。, 実はこの意の問題こそ、逍遥が「小説神髄」で語らなかったことだったのです。「小説を道徳から解放するべきだ」とは言うものの、そうやって描くべきものはなにか、ということについては逍遥は何も語らなかった。, だからこそ「当世書生気質」においても、逍遥は確かに書生の様子を緻密に描写して見せたけれども、意地悪な言い方をすれば、ただ描写しただけでその奥には何もなかった。(このことは後に森鴎外が逍遥を厳しく批判して論争となるのですが、今日はその話ではありません), しかし四迷が描いて見せたこの「浮雲」は、むしろ最初に意(アイデア)があってこそ生まれた小説だったのです。, 空に浮かんでいる雲はふわふわとあてどなく彷徨っているように見えます。雲をつなぎとめるもの、確信できるものがどこにもないということを表しているのです。, 主人公の文三は学校を卒業したいわゆるインテリなのだけれども、ところが彼の自負する「学問」は、現実の社会生活においては実用性を持たないという事実。たとえ学問をしても、自分は社会の浮雲でしかないという現実。実はそういう本音と建前の狭間を描くことこそ「文学としての小説」であり、「勧善懲悪小説からの脱却」だと、四迷はこの作品において宣言したのです。, そしてそれこそが「当世書生気質」にはなくて、西洋の名作と言われる小説には必ずあるものなのですね。坪内逍遥、まずこの時点でおったまげた。, さらに、逍遥の「当世書生気質」よりも四迷の「浮雲」の方がより西洋小説に近かった理由がもう一つありました。それは、本書「浮雲」を読めば、読者は主人公である文三と自分自身を一体化させることができる、ということ。, 本書で作者が描こうとしたものは文三という若者の苦悩や煩悶です。本書を読んだとき、逍遥は気づいたに違いありません。読んでいるうちに、まるで自分が文三と同じ気持ちになっていることに。, これもまた、逍遥が一年前に上梓した「当世書生気質」ではなしえなかったことなのでした。, 逍遥は一年前、「当世書生気質」を「これぞ西洋風小説!」というつもりで書いたのでしょう。しかし、あの作品を読んで小山田に共感したり、彼の身に起こったことをまるで自分のことのように感じる読者はいなかったのです。「当世書生気質」を読んでも、読者は自分が書生になった気持ちにはならないのでございます。, しかし本書「浮雲」を読めば、読者の誰もがまるで自分が文三になったように苦悩し、煩悶するでしょう。自分が「浮雲」のような不安定さ、不安感を感じるのです。そして逍遥が耽溺した西洋小説の面白さというものは、まさにそこにあった。, 小説の面白さとは、読んでいるうちにまるで自分がラスコーリニコフのような気分になって怯えたり苦悩したりしてしまうこと、ウェルテルの悲恋をさも自分の身に起こったことのように感じてしまうこと、グレゴール・ザムザの気持ちに共感してしまって「ああ、もし明日の朝、目が覚めたら虫になってたらどうしよう」とつい思い悩んでしまうこと、そうではありませんか?, 本書「浮雲」は日本の小説で初めて、そういう西洋小説と同じ読み心地を読者に与えることに成功した小説だったのでした。, そしてそれこそが逍遥が「小説神髄」で提唱した、「人情を描くこと」に他ならなかったのでございます。これもまた、逍遥が自ら提唱しながらなしえなかったことだったのです。, アイデアが大事だということも、読者が小説の登場人物に感情移入するように書くということも、今では「え? 小説ってそういうもんでしょ?」って誰もが思うでしょうが、当時は二葉亭四迷による本書によって初めてみんなが「あ、そういうことだったんだ」と気づいたのです。, ということで、そりゃあ坪内逍遥、自分の書いていた「続当世書生気質」なんて引っ込めますよ。「当世書生気質」は西洋風小説です、なんて、恥ずかしくて言えませんよ。, いやはやこんなものがですよ、「当世書生気質」から僅か一年で出るなんて、明治の日本人、恐るべしでございますねえ。, alicetearabbitさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog 世間では、私の号に就ていろんな臆説を伝えているが、実際は今云った通りなんだ。, 二葉亭四迷は、坪内逍遥の名前を借りて『浮雲』を出版したため、自分が情けなくなり、自分自身に対して、「くたばってしめえ!」と言い放ったわけですね。, 『予が半生の懺悔』では、二葉亭四迷がロシア語を勉強をするために東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学した理由、文学の道を志した動機、登場人物のモデルについて、文体の変遷、影響を受けた外国の作家などが語られています。, 『浮雲』を読んでから、『予が半生の懺悔』を読んでみたら、「ああ、なるほどな」と思うことがけっこうありました。, 早稲田大学第一文学部卒業。Amazon PrimeとKindleで完全武装した読書家。毎日の読書記録、読書案内、情報検索術等々、読書家に役立つ情報を発信しています。いわゆる「純文学」を主に取り扱っています。. 小説家では山田美妙が「です調」,二葉亭四迷が「だ調」,尾崎紅葉が「である調」の新文体を試みた。 1900~10年の言文一致会の活動によって,運動は一応の確立をみた。なお,この運動で試みられたさまざまの文体を総称して言文一致体と呼ぶ。 ブログを報告する, 藪の鶯 作者: 三宅花圃 発売日: 2012/10/04 メディア: Kindle版…, 武蔵野 作者: 山田美妙 発売日: 2012/10/04 メディア: Kindle版….

また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 二葉亭四迷の用語解説 - [生]文久4(1864).2.3/28. 本記事では、日本文学の名作50点を紹介します。絶対に読んでおきたい古典作品から、現代文学の作品まで、日本文学史を概観で... 「小説家を目指しています」ということになっているけれども、実際は毎日の仕事に追われ、小説を書くため... 『若い藝術家の肖像』(A Portrait of the Artist as a Young Ma... 本記事ではブラウザゲーム『文豪とアルケミスト』の「有碍書「い」~「ち」の段」に登場した文学作品・作... 『風流仏ふうりゅうぶつ』は明治時代の小説家幸田露伴こうだろはんの小説。明治二十二年刊行。

卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】, 特派員としてロシアへ赴任するも、肺結核を患い、日本へ帰還する際にベンガル湾上で亡くなる.

1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 小説家。本名長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)。別号冷々亭杏雨(れいれいていきょうう)。尾張(おわり)藩士長谷川吉数(よしかず)のひとり子として元治(げんじ)元年2月28日(一説には文久(ぶんきゅう)2年10月8日)江戸に生まれる。幕末から明治初年にかけての動乱期を江戸、名古屋、松江などで過ごし、最初は軍人となってロシアの南下政策からわが国を守ろうと考えたが、陸軍士官学校受験に失敗、外交官志望に転じて東京外国語学校でロシア語を学んだ。しかし在学中にロシア文学に興味をもち、学校が東京商業学校(現一橋大学)に合併されたことを不満として、1886年(明治19)退学、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)を訪ねて文学者として出発した。同年『小説総論』において、現象を借りて本質を写さなければならぬというリアリズムの理論を主張し、それに基づいて『浮雲(うきぐも)』(1887~1889)を発表したが、執筆中に生じた思想的動揺から観念や文学の価値を疑い、小説を中絶し、内閣官報局に入って官吏となった。官報局時代の彼は外字新聞の翻訳を担当するかたわら、内外の文献をあさって人生の目的や観念の存在価値を追求したが、結局それらの意味を確立することができず、「実感」を重んじて実業に従事したいと願うようになった。この探究の跡は手記『落葉のはきよせ』(1889~1894)に残されている。1897年官報局を退職、陸軍大学校などでロシア語を教え、1899年には東京外国語学校教授に就任したが、年来の志である日露問題への関心は消えず、両国の関係が緊迫化した1902年(明治35)外語大を辞任してウラジオストクに渡った。しかし現地の受け入れ先、徳永商店と肌があわず、北京(ペキン)で旧友川島浪速(かわしまなにわ)が主宰する警察学校の事務長となったが、ここでも川島と意見が対立して、1903年帰国した。, 帰国後朝日新聞社に入社した彼は、周囲の説得に屈して1906年『其面影(そのおもかげ)』を『東京朝日新聞』に連載(刊行は1907年)、文壇に復活した。この小説は、知識や観念のために「死了」して真の行為を欠く知識人の内面の空白を批判したもので、『浮雲』の主題を引き継いだ作品である。この小説の好評に促されて1907年『平凡』を発表したが、小説家で終わるつもりはなく、1908年、朝日新聞露都特派員として日露の相互理解に尽くすべくペテルブルグに向かった。しかし不運にも着任早々不眠症に悩み、ついで肺炎と肺結核を併発して、ロンドン経由、船路帰国の途中、明治42年5月10日ベンガル湾上で没した。, 文学者としての彼はわずか3編の創作といくつかの翻訳しか残さず、その実生活も失敗の連続に終わったが、「真理」を追求して経世済民の文学を目ざし、近代リアリズムと言文一致の主張によって近代文学の基礎を築いた功績はきわめて大きく、また翻訳においても『あひゞき』『めぐりあひ』(ツルゲーネフ原作。ともに1888)はじめ、『うき草』(ツルゲーネフ、1897)、『血笑記(けっしょうき)』(アンドレーエフ、1908)などのロシア文学を紹介し、後世に多大の影響を与えた。わが国最初のエスペラント語の教科書『世界語』(1906)を編纂(へんさん)した功績も忘れることができない。, 『『二葉亭四迷全集』全9巻(1964~1965・岩波書店)』▽『坪内逍遙・内田魯庵編『二葉亭四迷』(1909・易風社/復刻版・1975・日本近代文学館)』▽『十川信介著『増補二葉亭四迷論』(1984・筑摩書房)』▽『中村光夫著『二葉亭四迷伝』(講談社文庫)』▽『小田切秀雄著『二葉亭四迷』(岩波新書)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …二葉亭四迷の長編小説。1887年(明治20)第1編刊,88年第2編刊,89年第3編を《都の花》に連載。…, … なお,この虚実の問題は,写実主義・自然主義などのように,現実対象の忠実な再現的描写を志す芸術の表現理論に共通する課題であって,明治以降もしばしば論争の種となっている。例えば坪内逍遥の《小説神髄》における模写主義の提唱は,虚構を排し事実をとることを説いたものであるが,これに対し二葉亭四迷は《小説総論》で〈虚相〉を写すべきことを主張し,森鷗外は〈早稲田文学の没理想〉(1891)で,逍遥の没理想論は世界は〈実(レアアル)〉ばかりでなく〈想(イデエ)〉に満ち満ちているという重大なことを見落としていると反駁(はんばく)した。さらに石橋忍月は《舞姫》評で〈虚実の調和〉ということを説いている。…, …北村透谷が〈写実も到底情熱を根底に置かざれば,写実の為に写実をなすの弊を免れ難し〉(《情熱》)と批判したように,そこには〈情熱〉,つまり外界を見るよりもむしろそれを拒絶するような一種の倒錯的な内面性が欠けていたのである。 一方,ロシア文学に通じており内面的であった二葉亭四迷は,いざ書こうとすると,《浮雲》がそうであるように,実質的に江戸文学(戯作)の文体・リズムに引きずられざるをえなかった。実際に,《浮雲》などより,彼のツルゲーネフの翻訳のほうが,のちの写実主義の文学に影響力をもったといえる。…, …明治の小説は,言葉の向こう側にあるモノやココロの世界,つまりは意味されるものの世界に読者の想像力をふりむける技法を開発しなければならなかったのである。そのもっとも有力な技法の一つは,言文一致体で書かれた二葉亭四迷の《浮雲》における語りの構造である。すなわち,主人公内海文三の内面に入りこむとともに,たえずそれを揶揄(やゆ)する声を響かせる無人称の語り手の存在である。…, …彼の作品は社会性は強いが,詩人,哲人,画家の目による自然,社会,人間の公正な観察と真実の描写,洗練された優雅な言葉,美しい調和が特徴である。日本には明治中期に二葉亭四迷によって《片恋》(《アーシャ》),《めぐりあひ》(《三つの出会い》),《あひゞき》(《猟人日記》),《浮き草》(《ルージン》)が紹介され,さらに英訳が入って,田山花袋,国木田独歩,島崎藤村などの自然主義に影響をあたえた。【工藤 精一郎】。…, …チェンバー兄弟編の百科全書の文学項目(Rhetorics and Belles Lettres)が菊池大麓によって《修辞及華文》(1879)として訳され,また《新体詩抄》(1882)の序文が詩論の発端を示すなどして,やがて坪内逍遥《小説神髄》(1885‐86)が出て近代文芸評論は成立する。このリアリズム小説論は,二葉亭四迷〈小説総論〉(1886)の虚構理論に発展し,明治20年代にいたって坪内逍遥と森鷗外との論争などを通じて,文芸批評は時代の文学への指導的役割を確立する。だが文学が他の諸価値から自立した世界を形づくり,かつそれが文学者の内心の思いの表現であることを表明したのは北村透谷であり,透谷を含む《文学界》グループが西欧近代のロマン主義の移植を媒介として近代的な文学観を確立したとみられる。…, …しかし作風の継続性を読者に印象づけるため,一作家の用いる筆名はしだいに少なくなっていった。日本の近代作家のペンネームには,〈くたばってしまえ〉をもじった二葉亭四迷のような乾いたユーモアを主張するまれな例を除けば,(夏目)漱石,(正岡)子規など古典の章句などから構成した雅号風のものが多かった。写生を創作の基軸としたとき,伊藤左千夫が平仮名〈さちを〉の称を捨て,長塚節が本名をつらぬいたことなどは,雅号と作家の近代意識との関連を考えさせる。…, …ロシア文学の日本語訳は,朝鮮や中国におけるロシア文学移入のきっかけを作ったという意味で,国際文化史的に見ても重要である。日本人にとってのロシア文学の魅力は,二葉亭四迷がいち早く指摘しているように,〈真面目(しんめんもく)に人生問題の全般に亘って考究し〉〈日本文学者のやうに,文学一点張りで他方面の事は関せず焉で居たのではない〉(《露国文学の日本に及ぼしたる影響》)ところにあった。最も文学的で〈血も涙もある〉ツルゲーネフがまず最初に,奥深い人生・社会問題,思想,観念が文学であつかえる,しかも芸術的な形であつかえるということを日本人に教えてくれたのであって,L.トルストイもドストエフスキーもツルゲーネフの開いてくれたこの水路を通って日本に入ってきた。….