‚µj‹ZŽt‚Ì‚±‚Æ‚È‚Ç‚É‚Ó‚ê‚È‚¯‚ê‚΂Ȃç‚È‚¢B Williams, Anthony G. and Dr. Emmanuel Gustin. 21以降は、正式にはスーパー・スピットファイアの名称が与えられているが、この名称は一般には浸透せず、単にスピットファイアと呼ばれることが多い。, 第二次大戦勃発時にまともな艦上戦闘機を持たなかったイギリス海軍艦隊航空隊(Fleet Air Arms、FAA)は、艦上戦闘機としてハリケーンとスピットファイアのどちらが相応しいか調査を開始した。, 1941年、FAAは空軍のスピットファイアMk.Vを100機借用した。FAAは54機を慣熟訓練用として運用し、残りには応急的にカタパルト用フックとアレスティング・フックを取り付け、離着艦テスト用の機体"Hooked Spitfire"として空母イラストリアスで試験が行った。, この試験の結果を受けて、最初から陸上機として生産されたスピットファイアに空母で運用するための着艦フックや折りたたみ式の主翼など艦上機用装置を装備すると共に機体構造を強化されたものが生産され、実戦部隊に配備された。スピットファイアは主脚の間隔が狭かったために安定した着艦が難しく、着艦時の事故が頻繁に発生したが、主脚の構造を艦上機として再設計している余裕がなかったため、設計の変更はなされていない。しかし、イギリス海軍にとって新型艦上戦闘機の導入は急務であったため、生産と配備は継続された。真っ先に投入されたのはソビエト連邦に向かう輸送船団で、第二次世界大戦中の北極海における輸送船団でアヴェンジャーなどの護衛空母に搭載された。, イギリス海軍向けのスピットファイアはシーファイア (Seafire) と呼称された。これは「海軍向けスピットファイア」を意味する「シースピットファイア (Sea Spitfire)」を省略したものであるが、Seafireとは日本でいうところの「不知火」を指す言葉でもある。スーパー・スピットファイアの艦上機型(MK. Vを装備していた。10月になって定数機が全て揃い、翌月にクライヴ・コールドウェル少佐を指揮官に据えてオーストラリア空軍(RAAF)第1戦闘航空団が編成された[20]。, 年が明けた1943年の1月から、各部隊はオーストラリア北部への配置が開始され、3月にラバウルからクーマリー・クリーク基地へ襲来した大日本帝国海軍の第202海軍航空隊と第753海軍航空隊を迎撃したのが初の本格的な空戦であった[21]。5月2日の戦闘では5機のスピットファイアを失ったが、6機から10機の日本海軍機を撃墜した[22]。しかし、その他の5機が機体の損傷や燃料不足、エンジン故障で不時着し、このうちの2機だけが戦線へ復帰した[22]。, 1943年2月から、ポートダーウィン上空に来襲する日本海軍の零式艦上戦闘機と数次に渡って会戦した。状況は非常な長時間飛行で長駆飛来する零戦を、レーダー管制にて待ち伏せ迎撃するという、スピットファイアにとっては極めて有利なものであったが、結果は零戦の5機喪失(未帰還3機)に対し、スピットファイアは喪失42機(未帰還機26機)という一方的なものあった[23]。このほか、両軍一次資料による実損害等と照らし合わせたものでは、全9回の日本海軍との空戦で零戦7機喪失に対しスピットファイア34ないし35機喪失となる[24]大きな損害を受けた。, RAAFパイロットの多くは、欧州戦線で高速のBf 109やFw 190へスピットファイアの旋回性能を生かした格闘戦で対抗してきた経験から、それまでに高い操縦性を持つ零戦と対峙していたP-40戦闘機隊の「一撃離脱戦法に徹すべき」という忠告を聞かず、零戦が得意とする格闘戦に正面から挑んでいき多くが撃墜された。対戦した第202海軍航空隊、第753海軍航空隊が、搭乗時間1,000時間以上の熟練パイロットで構成されていたことも敗因とされる。, この結果を受けてRAAFのコールドウェル中佐は、零戦の対策法として「零戦とドッグファイトに入るのは賢明ではない。高速を利用した急降下攻撃を何度も繰り返すべきである」とパイロットに訓示しているが、優秀な操縦士と性能に優れる零戦を持つ日本海軍に対する戦況は好転しなかった。, 日本海軍による一連の空襲の後の1943年6月20日、日本陸軍の第7飛行師団も一式戦闘機「隼」以下戦爆連合をもってダーウィンを攻撃した。本戦にて日本陸軍は爆撃を成功させ、また一式戦「隼」も爆撃機を護りつつ、倍の数のスピットファイアとの空戦に勝利している。参加部隊と機体は飛行第59戦隊の一式戦「隼」22機、飛行第61戦隊の一〇〇式重爆撃機「吞龍」18機、飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機9機の3個飛行戦隊計49機(また、これとは別に敵情把握を受け持つ独立飛行第70中隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」2機も出撃)、対するRAAFはレーダーからの報告を受け、指揮官コールドウェル中佐以下3個飛行隊計46機のスピットファイアが迎撃した。, 戦闘の結果は一〇〇式重爆「吞龍」1機被撃墜に対し、スピットファイア2機被撃墜であった[25]。なお、本戦でもまたしてもスピットファイアは格闘戦に終始しており、これには第59戦隊第1中隊長がいぶかしむほどであった[26]。, さらに、高温多湿の太平洋アジア戦線においてスピットファイアは、飛び立っても高空では急激に温度が低くなり、低温の影響で定速装置のオイルが凝固すると制御不能となってエンジンを停止しなければならないという問題があり、被弾しなかったにもかかわらず機体故障のために未帰還となる機体が続出した[27]。さらに、赤道に近い地域では地上での高温多湿が機体を痛め、徹底的なメンテナンスを必要とさせたが、イギリス本土から遥か遠くという地理条件がある上に、1942年のセイロン沖海戦以降、1944年後半に至るまでインド洋の制海、制空権を長く日本が支配していたために、イギリス本土からの部品の供給がはかどらずに予備部品の不足が発生し[28]、その上、予備のエンジンを用意していないという重大なミスも犯していた[29]。, さらに、オーストラリアを拠点に太平洋戦線に当初配備されたスピットファイアは、当時の欧州戦線作戦機と比較すると旧式のMk.Vで、さらに防塵用フィルターが装備されていたため速度が30km/hほど低下していた[30](RAAFはMk. このため前線戦闘機(制空/戦術戦闘機)としては不適とされ、またソ連製戦闘機よりも高空性能に優れることから、後に都市部を守る防空軍に回され迎撃の任に就いた。, 1942年(昭和17年)2月に、日本軍によるオーストラリア本土進攻の脅威を受けたオーストラリア首相のジョン・カーティンから、チャーチルに宛ててスピットファイアの派遣が要請された[20]。イギリス空軍(RAF)の戦闘機軍団に所属する第54飛行隊、第452飛行隊、第457飛行隊がリヴァプールを発ち、インド洋の制海権、制空権を得た日本軍を避けてオーストラリアのメルボルンに着いたのは同年6月であった。, 第54飛行隊を除き、パイロットはオーストラリア人で構成されており、48機のMk. 子供の頃、スチロール製の手投げ飛行機のオモチャにラインナップされていたのは、必ず日本の零戦と隼、アメリカのマスタングとグラマン、ドイツのメッサーシュミット、そしてイギリスのスピットファイアだった。 零式艦上戦闘機、零戦(ゼロ戦)は今なお熱狂的なファンがおり、日本人にとって『もっとも美しい大戦機』は『零戦』だが、同じ島国でもイギリスの人たちにとっては『スピットファイア』なのだ。 細く長く優 … VIIで採用された。. 「隼」とP51では設計の時期がちがううえ、エンジン出力だけを例にとっても「隼」二型の一一五〇馬力にたいし、P51は一六八〇馬力と格段の差があったので、性能的にも大きなひらきがあったが、低高度では運動性にまさる「隼」が善戦したようだ。 XIIはわずか8分で高度1万メートルに達することができ、水平飛行で約640km/hの速度に達した。このタイプはマーリンエンジン搭載機に比べれば、速度と武装は向上したが、燃料消費が多く航続距離と搭載量に深刻な欠点をかかえていた。そのため、限定的な航続距離しか必要とされない本土防空戦闘機の役割が与えられ、もう一方のマーリンエンジン搭載機はヤーボとして運用された。総じてグリフォン搭載型は、エンジン出力の向上に機体強度が追いつかず、また、マーリン・エンジンとはプロペラ回転トルクが反対方向になるため、当て舵が逆になることから、「高性能だが操縦が難しい」とされ、これらを失敗作と評価する向きも見られる。, グリフォンエンジンのクランク回転方向はマーリンのそれとは異なり、減速後の軸の回転は左回り(パイロットから見て反時計回り)となるため、プロペラのピッチ(ひねり)もマーリンエンジン機とは逆である。また、シリンダーヘッドの張り出しが大きく、排気管上のフェアリングに大きな膨らみがある。これらの相違は搭載エンジンの外観上の識別点となる。, MK.

Vは、武装によって主翼が異なった。A ウイングは最初期の翼と同等で、ブローニング機関銃を左右にそれぞれ4挺(弾数各350発)ずつ搭載可能であった。B ウイングは左右にそれぞれイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各60発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各350発)ずつ搭載していた。Aウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲を搭載するためのバルジと翼から前方につきだした銃身保護用フェアリングである。E ウイングは両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング M2 12.7 mm (.50) 機関銃を1挺(弾数各250発)ずつ搭載していた。B、C ウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲のフェアリングが外側にあること(外側が20 mm 機関砲の銃口、内側が12.7 mm 機関銃の銃口)である。C ウイングはユニバーサル・ウイングともいい、次の3タイプの武装が可能であった[19]。a タイプでは、両翼それぞれにブローニング機関銃を4挺(弾数各350発)ずつ搭載した。b タイプでは、両翼それぞれにイスパノ20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各350発)ずつ搭載した。20 mm 砲弾数は、B ウイングのドラム式からベルト給弾に改められたため倍に増えている。Bウイングとの外見上の違いは、20 mm 機関砲用フェアリングの横に小さなフェアリングが付いている点である。c タイプでは、両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を2門(弾数各120発)ずつ搭載した。, 照準器に当初、GM-2が使用されていたが、後にジャイロ・ガンサイトのMk. 子供の頃、スチロール製の手投げ飛行機のオモチャにラインナップされていたのは、必ず日本の零戦と隼、アメリカのマスタングとグラマン、ドイツのメッサーシュミット、そしてイギリスのスピットファイアだった。, 零式艦上戦闘機、零戦(ゼロ戦)は今なお熱狂的なファンがおり、日本人にとって『もっとも美しい大戦機』は『零戦』だが、同じ島国でもイギリスの人たちにとっては『スピットファイア』なのだ。, 細く長く優美な零戦の翼も美しいが、高速性を求めて作られたスピットファイアの優美な楕円翼もたしかに美しい。, この楕円翼はスーパーマリン社の主任設計技師レジナルド・ジョセフ・ミッチェルの理論に基づくもので、(映画『紅の豚の』モデルになった)国際水上機スピード競技『シュナイダー・カップ』で優れた成績を挙げて、速度性能に優れるということで採用された。美しい機体が優れた性能を持つというのはなんともロマンチックな考え方だ。, スピットファイアは第2次世界大戦では零戦の敵である連合軍側、イギリスの飛行機であったが、主戦場はヨーロッパ。押し寄せるドイツ軍からイギリスを守り『大英帝国の守護神』とさえ呼ばれた傑作機だ。, 大挙して押し寄せるドイツ軍機を、1対4という圧倒的な戦力差を押し返して撃退したのは、スピットファイアとハリケーンの栄誉といえるだろう。やはり傑作機の名が相応しい大戦機なのだ。, エンジンは零戦が中島飛行機(終戦後、解体され、その後身が富士重工=スバル)製の空冷星形14気筒だったのに対して、ロールスロイス製の液冷V型12気筒エンジンを搭載していた。大馬力を得やすく、空気抵抗も少ない液冷 V12を搭載できたのは、やはり工業力の差といえるだろう。, さて、敵と味方に分かれてはいるが、ヨーロッパ戦線と、太平洋戦線ということで、ほとんど接点のなかった零戦とスピットファイア。実は、戦史をひもとくとわずかながら戦闘の記録は残っている。, 1943年オーストラリアのダーウィン攻防戦などがその例だが、それによると零戦の圧勝だったようである。ただ、スピットファイアが巴戦にこだわらず、米軍機のように一撃離脱の戦法をとったらどうだろう? また、より大馬力エンジンを積む後期の機体だったらどうだろう? などなど、これは議論が尽きないテーマだ。. XIIは1942年の夏までに配備された。このMk. Vが、ドイツ軍やイタリア軍と対峙していた北アフリカ、地中海、中東へ派遣された。最初に派遣されたのは補給が困難となったマルタ島で、1942年に空母イーグルから発艦して直接マルタ島の飛行場に降り立った。この進発を皮切りにスピットファイアが主に空母で送られたが、一時的にイギリス海軍がドイツ空軍の空襲により制海権を失いかけると、ジブラルタルからマルタ島まで直接無補給でスピットファイアを送る試みがなされた。この試みで、大型増槽の装備と武装の削減を施されたMk. 45~47)を「スーパー・シーファイア」と呼ぶ事もあるが、公式な名称ではない。, スピットファイアは、バトル・オブ・ブリテンにおける勝利の立役者とされ、その設計者のミッチェルとともに、「The First Of The Few(邦題「スピットファイア」)」という映画にもなって、称賛されている。, ドイツのエースパイロットであるアドルフ・ガーランドが「どんな飛行機が欲しいか」と聞いたヘルマン・ゲーリングに対し、皮肉を込めて「自分の部隊を全てスピットファイアにしていただきたい」と述べるなど、敵方のドイツ空軍パイロットからの評価も高い機体であった。, ハリケーンはスピットファイアに対して翼の構造上、重武装を搭載するにあたり幾分か有利であった。それらは爆撃機や対地攻撃に効果を発揮し得たが、そういった火器を増強すると機動性と加速力、上昇力に影響を及ぼした。重くなったハリケーンはドイツの戦闘機との空戦には向かなかった。一方、スピットファイアはBf 109と肩を並べられる存在であった。, ドッグファイト(空中戦)では、その機動性とコックピットの良好な視界という要因によって、ドイツ軍の戦闘機に対してスピットファイアがかなり多く勝利をおさめている。燃料噴射装置を搭載するBf 109は、スピットファイアに追撃されるとマイナスGをかけながら降下して離脱した。在来のキャブレター式で燃料供給されるスピットファイアがマイナスGでエンジンが停止することを知っていたためである。設計陣とパイロットたちを悩ませたこの弱点は、王立航空機関 (RAE) の女性研究者ベアトリス・ティリィ・シリング(Beatrice (Tilly) Shilling)の考案になる、小さな孔をあけたダイヤフラムを追加してバルブをバイパスする、すこぶる簡潔だが巧みな仕掛け(通称「ミス・シリングのオリフィス」en:Miss Shilling's orifice 、邦訳「シリング嬢の煙突」)で打開された。バトル・オブ・ブリテンでは、スピットファイアが護衛戦闘機のBf 109やBf 110を攻撃し、その間にハリケーンが爆撃機を攻撃するといった戦法も用いられた。バトル・オブ・ブリテン全体で見れば、ドイツ軍が撃墜した10機のうち7機はハリケーンであった。, しかしながらスピットファイアは、ライバルBf 109と全く同じ、主脚の引き込み方式に由来する地上での安定性の不足、そして航続距離の短さという欠陥を抱えていた。防空戦闘機として活躍する際には航続距離は問題とならなかったものの、ドイツ本土に侵攻する爆撃機隊の護衛戦闘機としては致命的であった。ドイツとフランス上空が主戦場となった戦争の後半において、制空任務を務めたのは、増槽を持つアメリカ製のP-51 マスタングであり、イギリス空軍も本国の防空よりも敵地での地上攻撃が主となっていったことなどから、スピットファイアは戦闘爆撃機型と武装偵察機型の活躍が主となる。, 戦闘爆撃機型のスピットファイアは、P-51やP-47などのアメリカの戦闘機や、ホーカー タイフーンやホーカー テンペスト等と比べれば、搭載量も航続距離も低かったが、これらの戦闘機よりも軽量で、滑走路も短くて済むため、地上部隊の直協任務に適していた。, 防塵用フィルターのボークス(Vokes)を機首下に装備したスピットファイア Mk. New York: Facts on File, 1990. III 爆弾架を使用することで250ポンド爆弾を翼下に、500ポンド爆弾を胴体下に搭載可能であった。ロケット弾は、翼下に3.5インチHEロケット弾を搭載可能。, スピットファイアの短所のひとつである短い航続距離を延長するために、内装タンクの増加に加えて様々なタイプの外装式タンクが採用された。内装タンクは、胴体後部へのタンク追加、前部タンクの増量、翼前縁へのタンク追加がなされた。, コンフォーマルタンクを先取りしたとも言える、スリッパー式ドロップ・タンクは30英ガロン、45英ガロンの容量のものが作られた。さらにフェリー用の90英ガロンの容量を持つタンク、170英ガロンの大型スリッパー・タンクまで作られた。スリッパー型ドロップ・タンクの他、一般的な魚雷型ドロップ・タンクも使用された。, 標準では、100オクタン燃料(緑色)を使用していたが、一部高速が要求される機種では、バスタとして150オクタン燃料が使用された。, ロールス・ロイス グリフォンを搭載したスピットファイア Mk. Glancey, Jonathan. @˜b‚́AŽlZ”N‚Ù‚Ç‚³‚©‚Ì‚Ú‚éB, top IIが搭載された。, 対地攻撃には、Mk. IXなどが追加された。 Flintham, Victor.

飛行するスピットファイア F Mk.IIA P7895号機(第72飛行隊所属機、1941年4月撮影), スピットファイア(Supermarine Spitfire)は、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発レシプロ単座戦闘機である。, 第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された1940年のイギリス防空戦(バトル・オブ・ブリテン)の際に活躍したため、イギリスをドイツ空軍から救った「救国戦闘機」とも呼ばれる[3]。, 格闘戦を重視し旋回性能を向上させるため楕円形で薄い主翼を採用しているのが特徴である[3]。主任設計技師であるR.J.ミッチェル(1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとするミッチェルの後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、ライセンス生産など含め23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。, スーパーマリン社の主任設計技師であったR・J・ミッチェルは、空気抵抗を減らすために非常に流麗な流線形の機体をもった水上機「Sシリーズ」を設計し、ネイピア ライオンやロールス・ロイス社製の強力なエンジンを搭載して、シュナイダー・トロフィー・レースに1927年のS.5、1929年のS.6(英語版)、1931年のS.6B(英語版)で出場、3回の優勝を成し遂げ、祖国にトロフィーの永久保持権をもたらした。こうした先進的な設計は、戦闘機にも応用できる部分が大きかった。, 1931年、イギリス空軍は次期戦闘機仕様書F7/30を提示、これに応募したスーパーマリーン社はミッチェルを主任設計士にし、合致する404km/h以上の速力を持つ戦闘機の開発を始めた。1934年2月に初飛行したタイプ224(英語版)は風防がなく、空気抵抗の大きい固定脚をもつガルウイングの単葉低翼機で、エンジンにはロールス・ロイス ゴスホークを搭載していた[4]。タイプ224は他社が設計したものと同じくエンジンや機体の性能が低く、空軍の期待に添うものではなく、結局旧来の複葉機であるグロスター グラディエーターが採用となった。ミッチェルは、Sシリーズの経験を生かした設計に取り組み、より洗練された機体の設計を進めた。同年には新たな仕様書F.37/34が提示され、これに応じて新しく設計されたタイプ300は、主翼の小型化、主脚引き込み機構を搭載し、7月にイギリス航空省へ提出されたが、採用には至らなかった[5]。ミッチェルは更に改良を進め、風防、酸素マスク、そしてエンジンにはより強力なロールス・ロイス PV12が搭載された。11月には、親会社であるヴィッカース・アームストロング社の支援を受け、タイプ300の細かな設計が進められた[6]。, 1935年1月3日に航空省は正式に契約し、必要な装備の要求を掲載した仕様書F10/35を発行した。武装は、ヴィッカース7.7mm機関銃4丁であったが、1935年4月に航空省のラルフ・ソアビーによる推薦で、ブローニング7.7mm機関銃8丁へ改められた[7][8]。1936年3月5日、試作機(シリアルナンバーK5054)がイーストリー・エアロドローム(現サウサンプトン空港)において初飛行を行った。操縦を行ったヴィッカーズ・アームストロング社の主任テストパイロット、ジョセフ・サマーズ(英語版)大尉は、「これ以上何も触れなくていい(=機体に手を加えなくていい)」と感想を述べたという。その後、ジェフリー・クイール(英語版)とジョージ・ピカリングらによる試験飛行で最高速度528km/hを記録し、より鋭利なプロペラでは557km/hに達した[9]。これは同じマーリンを搭載し、4ヶ月前に初飛行したホーカー ハリケーンを60km/hも上回る性能であった。6月3日には、航空省から310機の発注がなされた。, タイプ300の名称については、航空省からいくつかの候補が載せられたリストが提示されたが、ヴィッカーズ・アームストロング社の取締役、ロバート・マクリーン(英語版)が、気性の荒い自分の姉に付けられていたあだ名から「スピットファイア(直訳すると「口から炎を飛ばす人」、転じて短気な人、癇癪女の意)」を提案した[10]。この呼び名は非公式ながらタイプ224にも与えられていた。しかし、ミッチェルはこれについて「ひどく馬鹿げた類の名前だ」と漏らし、気に入らなかったという[11][12]。, ミッチェルは1933年から大腸癌に冒されていたが、スーパーマリン社の機体で初めて主力戦闘機の座を勝ち取ることや、ナチスの台頭に危機感を覚えたことから、病をおして設計を続けた。1937年12月、直腸癌が再発したミッチェルは、スピットファイアの量産第1号機の完成を見ることなく死去した。以降の設計や改良は同僚のジョセフ・スミスが引き継いだ。, ミッチェルの狙いは、比較的容易な操縦性を保ちつつ、マーリンエンジンの力を生かして高性能な爆撃機を要撃できるバランスのとれた戦闘機であった[13]。当時、戦闘機は自軍や母国の防空に専念すると考えられ、イギリス上空に進出してくることを想定していなかったことから、要撃には爆撃機を待ち受けるために素早く上昇することが必要だった。, 上昇力だけでは戦闘機と渡り合うことはできないという問題を解消するため、1934年に設計陣は楕円翼形を採用した。抗力を生むことを避けるため、主翼の厚みは薄くする必要があったが、巧妙な設計によって薄い翼でも機関銃とその弾薬、そして、格納式の引き込み脚の搭載を可能とした。, この楕円翼形の採用について、ミッチェルは1932年に初飛行したハインケル He 70の翼形をコピーしたと非難されることがあった。設計陣の航空力学担当であったシェンストーンは、戦後、これを否定した。, 翼付け根で13%、翼端で6%の翼厚・翼弦比率の実現に向いていたため、翼型は、NACA 2200シリーズを使用した[13]。横方向の安定性に対応するため、上反角は6度とされた。, 翼端のパーツのみを交換することで、飛行特性の変更が可能。主に高々度用に延長翼、低高度用に切断翼が使用されたが、型式のHF、LF等とは直接関係がない(これらの型式は搭載されたエンジン(スーパーチャージャーの設定高度)による。, 主翼の特徴は、革新的な翼桁を延ばした設計であった。5本の角管が翼幅に従って細くなり、翼端に近づくにつれ角管を減らした。そのうちの2本は結合され、軽量でありながら強固な主桁となった[15]。引き込み脚構造は、主桁の内部に軸を設け、真横ではなく、やや後ろ方向へ車輪を収容した。これが着陸時に主桁にかかる曲げ荷重を軽減することから、車輪間の幅の狭さは、許容範囲だと考えられた[15]。, 楕円翼の採用は生産性の悪化を招いたものの、捻り下げや戦闘機としては極めて低い翼厚比と併せて、大迎え角での誘導抵抗の減少、翼端失速の防止、翼内武装の充実、高速といった長所をスピットファイアに与えた。後期モデルの翼は、これよりももっと薄く、まったく異なった構造になっている。, 1934年に.303ブリティッシュ弾を使用する標準口径ライフル機関銃に選定されたブローニング機関銃だが、供給量が不足していたため、初期のスピットファイアには4丁のみ搭載された[16]。この機関銃は地上や低高度での動作に問題が見られない一方で、高高度で凍結する傾向があり、特に翼端に近い機関銃ほど、その傾向が強かった。原因は、弾薬に使用されるコルダイトの過熱を防ぐため、機銃の構造をイギリス向けにオープンボルトへ変更したことであった[17]。根本的な解決策が見出されたのは1938年10月で、翼にラジエーターを据えてダクトを通じて機関銃に暖気を送った。しかし、8丁のブローニングを搭載していても大型機を撃墜するには威力不足であった。事実、戦闘報告において、1機を撃墜するのに平均で4,500発を撃っていたことが示された。1938年11月の装甲標的と非装甲標的に対する射撃試験により、本機には口径20 mmの火器が必要であると結論付けられた[18]。, 1940年に開発されたスピットファイア Mk.